舞踏舎 天鷄
鳥居えびす&田中陸奥子
Butoh-sha Tenkei
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「彼方」批評/ロジャパン・タイムス誌

思想が踊る、舞踏舎天鷄の舞台 by ジルス・ケネディ

舞踏舎 天鷄 舞踏舎天鷄は11月10・11の両日、東京下北沢の北沢タウンホールで上演され来春2月、米国ツアーを予定している新作『彼方』の舞台で、新たなる暗黒の形相を開示した。このグループは舞踏家として大駱駝鑑および自らの作品において25年以上のキャリアを積んだ鳥居えびすと田中陸奥子が主宰し、その時々新たなメンバーを率いて上演活動を続けてきた。今回は二人の女性舞踏手、上田ユカリとサイトウカオリが共演した。二人は天鷄の前作『ノクターン』にも出演している。

今回、前衛舞踏集団天鷄はそれまでの定番である絵画的なシーンで幕が開き、ソロや群舞をさしはさんだ後、再び絵画的シーンで終わる、という定型をあえて踏み外してみせた。そして4人という小集団でありながら舞踏がもつ本来の凝縮した構造を見事に再現することに成功した。

天鷄の舞台では舞踏手がそれぞれソロパートを担いながらも、ある種の一体感、統一性の持続が感じられ、特に掛け合いの場面ではこうした構造がないとしたら全てが内向して所在なさだけが醸し出されたことだろう。とはいえ田中はこのグループにおける傑出した舞姫であって一頭地をぬきんでた恒星中の恒星の輝きを発していた。

舞踏舎 天鷄鳥居は冒頭から定石を破って自らのソロで開演を告げた。天井からは色布で編んだ二組の縄が落とされ、舞台下手前の平台に板ついた鳥居はまさに「静物」の趣。伝統的な芝居や舞踏家に好まれる白塗りではなく黒の靴墨を塗り、1950年代市井の人の衣装に身を包んだ鳥居はまさに異装の人。

その踊り自体もまた舞踏の世界では奇抜なものではないか。それは鳥居の所在なさへの執着であり、今回の舞台では、不釣り合いな黒い帽子をかぶった無垢で荒唐無稽な人物への変身として造形されていた。オープニングでもう一つ際立ったのは鳥居の歌うがごとく、あるときは語るがごとく、そしてまたあるときは吃音をもってするきれぎれの発声であった。

暗闇の静寂におおかみの咆哮が沁みゆくと、ひとつの神話世界が開示されていく。

舞踏舎 天鷄 四肢を震わし痙攣するうごきは痛々しくも見えるが、鳥居の天賦の才は人々の共感を集めるところにある。観るものと結んだこの強い絆において彼はまさに大野一雄の衣鉢を継いでおり、鍛錬した身体技の披瀝を称揚する他の舞踏流派の対極に位置するものであるといえよう。しかしひとたび観客が鳥居に、あるいは鳥居の描く幻想に同期すれば、鳥居は瞬時にして観客をその魔術の世界に捉え、離さないのである。

田中は別の手段で魔術をかける。モロッコの民族音楽とマドリガルの絶妙な混合、きれぎれジャズの主題とシンセサイザーの掛け合いへとわれわれの注意が惹きつけられる。そして彼女が恭しく片手を上げ、メールストルムの渦のように上半身を揺り動かすと観客はいつしか彼女の物語に引き込まれていくのであった。舞台奥、紗幕にさえぎられたひな檀上では上田、サイトウの二人がバラバラになった振り子時計、あるいは反対の位置にあるメトロノームの針のように硬直させた身体を前後にふりながら行き来していた。

舞踏舎 天鷄しかし焦点はあくまで田中に注がれている。おそらく最初の振り付けられた一連の動きの中で田中が親指を口に押し込み、身体を揺り動かしながらめくるめく回転を踊り始めると、件の布縄は瞬時にして天井からの臍帯と化すのであった。田中は疎外や精神的崩壊といったテーマへの傾きを深めているが、これは恐ろしくもあり、と同時に満足のいく試みでもあった。

パトス(受苦)のシーンはシフトドレスをまとい、頭に大きな赤い球根のようなかぶり物をつけたサイトウと上田のコメディ(喜劇)シーンに引き継がれる。昆虫の触角のように指を痙攣させるかと思うと、まるで細長いマッチが自分で点火しようとするように頭を地面 に擦りつける。ここで鳥居が悲しげなジャズをバックにもう一度ソロを踊る。舞台に倒れ、背中で這い回りながら床に肘を打ちつける。

やがて彼は舞台奥中央に位置をとり、かわいらしく擬人化されたデカダンなブックエンドとなった上田とサイトウに挟まれて立つ。すると田中は舞台前中央、観客に背を向けた位置から彼女得意のレパートリーのひとつを舞い始める。今世紀初頭パリで一世を風靡した米国ダンサー、ロイ・フラーの変身もかくやとばかりの変貌の力技で「踊る現代の巫女」へとのぼりつめていく。しかし田中は満開の花を表現するのに衣装でそれらしくみせる、といったことはしない。マラルメが評したごとくフラーの芸術が「思想の具現化」であるとしたら、田中のそれは舞踏それ自体が思想である、ことを開示するものだからである。

舞踏舎 天鷄『彼方』では以前の天鷄の舞台に見られる「遊び」の要素は少なくなってきているし、政治的な諧謔も影をひそめているが、よりまとまりのよい舞台となっている。そして何よりも暗黒の中に幻視される表象の数々こそ、もっとも確かな手応えを感じさせてくれるものなのである。


作品紹介→WORKS / 1999 彼方1999
出典HP→ジャパン・タイムス


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