震災体験ご投稿のコーナー
VISITOR'S EXPERIENCE

皆様のご投稿を心からお待ちしております。(^_^)
ご注意:ご投稿はGuestbookまたは、Emailでおねがいします。

Email address,handle,name等を文末に書いていていただければ
これも掲載いたしたいと思いますが、表に出したくない方はお知らせください。

t-fukui@kh.rim.or.jp

guestbook
LAST UPDATED ON JAN.13.1999

"In The Waterside"(MIDI 6K) written by T.Fukui(c)1998


4周年をむかえます。新たにお二人から御投稿をいただきました。

投稿No.8 消し去られたもの

 またあの日がやってきます。私は灘区の都賀川の側で生まれ、三宮の市場で育ち、関西学院に学び、宝塚で職を得、今も中央区に住んでいます。
 震災後すぐに亡くした父は先生のクリニックのある長田区の庄田町でずっと小さな菓子工場をやっていました。私の全人生にかかわる場所がすべて震災の被害をうけました。
 なんだか私の生きてきた記録を一気に消去させられたような気がして、今だに悔しい思いをしております。でも記憶は無くなりません。今後も神戸に住み続け、神戸の記憶を語り続けていきたいと思っています。先生のページを見つけ改めてその想いを強くいたしました。

1999.1.13 Accepted from 広高一典
hirotaka110msn@msn.com

投稿No.7 震災の悲劇

今まで沈黙を守っていましたが、このまま、人々の記憶から亡くした人の面影が消えて行くのがどうしてもやるせなくなり発言させて頂きます。

震災当時、前の年の7月に結婚し、長田区大橋町にあった実家から引越しした先の明石で被災をしました。あの朝、ドンと大きな音と下から突き上げられるような衝撃とで目が醒め、怯えてパニックになっている嫁をかばいとりあえず自分たちの身の安全の確保に精一杯でした。家の周りからはガス漏れの匂いで家から離れる事が最善と考えていました。

避難先で自分を取り戻し、実家の事が心配となり各々の実家へ連絡したときに私の家への連絡がとれず心配でした、しかし、嫁の怯えようも尋常でなかったのでしばらく一緒にいたのですが、何かどうしても胸騒ぎがして、近所の人へ嫁の事預け一路実家へ向かいました。当時、実家には母と交通事故により半身不髄となった父、そして前日に誕生日を迎え15歳になったばかりの弟がいました。

私は、実家にもし何かあっても弟が何とかしてると思い、すこし楽観視していたのですが、ラジオから大橋町が大火事だとか、菅原町が燃えてるとかの情報が流れていて、悲しくも無いのに涙が溢れ出していました。

次第に実家へ近づくにつれ見慣れた風景の驚くほどの変化に目を疑い一刻も早く実家へ向かい家族の安否を確かめたかったのです。

やっとの思いで実家へたどり着き2号線へ車を止め走って実家を確かめに行き、そこにあった実家は火の壁となって私の目の前にあったのです。その瞬間ただ呆然としていました。1分1秒が永遠とも思え、自分が置かれている状態が冷静に判断できず意識が途切れていました。しかし、もしかしたらどこかに避難していると思い必死になって手がかりを探していると半身不随の父が布団に包まって路上に座り込んでいました。父は自分が近所の人達に崩れた家から引き出された事を言い、母も助け出され長田区の協同病院に担ぎ込まれた事を言いました。ただ、弟の事を聞くとわからないとの事でした。きっと弟は何処かへ逃げていると思いとりあえず母の様態が気がかりになり協同病院へ向かいました。病院の中は映画か何かで見た野戦病院の用で、肉の焼け焦げた匂いと血の匂いで充満していました。幸い母は強度の打撲だけで済み、ただしばらくは動けないとの事でした。(もしかしたら骨折しているかもしれないとの事でレントゲンが取れる施設への移送が必要との事でした)

私は母に促され弟を探す事にしました。しかし近所の避難所には弟の姿はどこにも無くその日はとても寒かったので母を病院に残し、父を車に乗せて私の西明石の家へ連れて帰りました。

次の日から弟を探す日が始まりました。学校の先生や親戚などに弟が行方不明なのを告げそれこそ、神戸の救急病院と避難所を全てまわり3日4日と過ぎて行きました、絶対何処かに生きていて寂しい思いをしていると思い、本当に必死になって探したのです。しかし・・・6日目の朝、私の家に自衛隊の方から電話がありました。

担任の先生に依頼により実家の場所を掘った所、遺骨が出てきたので確認して欲しいとの事でした。急いで、家族全員を連れ実家へと向かいました。

そこには、変わり果てた弟が結婚して実家を出る事になるまで私が寝ていた場所で横たわってました。地震の5時間前は誕生日と言う事もあってジャレあって遊んでいたのに・・・・なんでこんな事に・・・・

自衛隊の方は丁寧に遺骨を集めビニール袋で申し訳有りませんと言ってその袋に詰めていただきました。私は自分の服でその袋を包み持ってその異様なまでの軽さにまた悲しみが込み上げました。

その日から何がどうなったか記憶が混乱していて覚えているのですが前後関係がよく整理できません。ただ、地震の話をする時必ず、弟の事を、私には弟がいた事を皆に知って欲しいので一番先に話します。

時が流れて、被災者の人たちの記憶からもあの時の気持ちを忘れずにいて欲しいと思い投稿しました。

最後に、あの時にお世話になったボランティアの方々や自衛隊の方々に大きな感謝をして、心からお礼を申し上げます。

1999.1.10 Accepted from 山口浩司
hiro@movenet.or.jp


投稿No.1 六甲アイランドでの震災体験

 当時,名古屋に単身赴任しておりまして,連休明けの火曜日早朝,そろそろ支度をして 出かけねばとうつらうつらしているときにぐらぐらがたがたと忘れもしない,あの地震でした.(当時は, 六甲アイランド 6:30 JR住吉 6:55 新大阪 7:26 名古屋 8:26 着 会社 8:45着 兼松名古屋支社 のパターンでした)
 揺れがおさまって,ベランダに出てみましたが,妙にシーンと静まり返っているだけで,不気味なぐらい静かだったことを覚えています.ただ,対岸の三宮から岡本の方を見ると,幾筋かの煙が上がっているのが見えました.その日は,片付けをしたり,連絡を取ったりしているうちに過ぎましたが,怖かったのは翌日です.

 朝から,六甲アイランド全域に``LP-GAS タンク爆発の危険性``ありと言うことで,避難命令が出され,子供を連れて,南端のCANADIAN ACADEMY に避難しました.
特にこれといった情報が入ってくるでもなく,不安な一日を過ごしましたが,夕刻解除になったとの連絡が伝えられ,とぼとぼと親子3人歩いてマンションに戻りました(妻のおなかには2人目がいました.当時6ヶ月 この年の5/29 元気に生まれ,ひかりと名前をつけました.今は,2歳7ヶ月です)

地震から3日目,昨日の避難命令にこりたので,朝から荷造りをして,伊丹の実家に避難すべく,歩いてアイランド大橋を渡り,7時間かかって,阪急西宮北口にたどり着きました.途中,工事のライトバンに乗せてもらったり,いろいろしながら歩きましたが,阪神青木から芦屋にかけての,光景は未だに忘れることができません.燃えている家の横で,何かを無心に唱えながら掘り出そうとしている老婆,歩いている横を毛布にくるまったまま,自衛隊の方によって運ばれてゆく死体,DOCUMENTとか映画でしか見たことのない,終戦直後の光景というのはきっとこんなふうだったのだなと,妙に納得したことを覚えています.

西宮北口から阪急に乗って,2駅目の塚口で降りたとき,居酒屋の灯り,ハイヒールをはいた女の子,など,ふだんと変わらない風景が広がっており,妙にそれまでの3日間と,アンバランスだったような気がしました.

地震からまる3年,あの震災は体験した人でなければ,何もわからないと思います.マスコミなんて言うのは,非常に無責任なもので,1年ぐらいは,あれこれ取り上げておりましたが,今では,地震のじの字もありません.
 やれ,金融不安だBIG-BANGだと,UP-DATEな話題に翻弄されているのが,現状だと思いますが,少々乱暴な比較かもしれませんが,あの震災と比較すると,今,身の回りで起こっていることなど,全然大したことではないような気もします.

たまたま,会社でこのホームページを見つけて,久しぶりに地震のことを思い出しましたが,あのときの経験は生々しく体の一部に残っております.私の住んでいる六甲アイランドにも,まだたくさんの仮設住宅があります.
 大したことはできないと思いますが,同じ震災を体験した者として,何かお手伝いできることがあれば,声をかけてください.

1998.1.6 Accepted from よしだみちお
e-mail :mi.yoshida@kanematsu.co.jp

投稿No.0 中央区川鉄本社での震災体験

  震災当日、中央区の川鉄神戸本社別館にて仕事中で最初、津波が迫ってくるような「ごーっ」と言う音を聞いた後は訳が判らず、「工場に飛行機でも落ちたのか?」と思いました。
 当時転勤で神戸に通っていたのですが、実家が大阪にあり単身赴任の形だったのが幸いしました。(もし家族も一緒に転居していたら東灘区の社宅住まいで大変だったと思います。)
 今日も仕事で徹夜なのですが、そろそろ関東でも大地震が来そうな気配がして落ち着きません。ちょうど、「そろそろ震災から3年だなぁ」と思ってホームページを見てコメントを書かせて頂きました。

1997.12.5 Accepted from にしうら
e-mail:h_nishiura@hotmail.com

投稿No.2 長田での給水活動をとおしての震災体験

 私は地震から2週間たった2月から1週間水道協会から神戸に応急給水に参加しました。行った場所は長田区でした。長田港から船で水が運ばれそこからトラックにタンクを載せて断水場所へ水を運びました。
 私たちが行くまでは公園や避難所に自衛隊の給水タンクがあり、そこで水をもらっていたようでしたが、私たちは狭い道も何のその、入り込んでいき水を配りました。
 長田港で5歳ぐらいの子供とお父さんが水をもらいに来ていて、私がバケツを運ぼうとした時お父さんが子供に、「働かないとご飯抜きだ」
 あの言葉が今も心に残っています。地震さえなければ小学校か幼稚園か普通に行っているはずの子供なのに。
 あの1週間は地震と命の水の重要さとをつくづく考えさせられました。
 余談ですが、げだつ保育所の保母さんの入れてくれたコーヒーとてもおいしかったです。水を持っていきみんなに喜んでいただき感謝しております。福井さんのホームページのおかげでまた昔を思い出し初心に返って頑張ります。神戸のみなさんも頑張って下さい。

1998.1.7 Accepted from 三谷 仁
e-mail:jin555@dokidoki.ne.jp

投稿No.3 建築家としての震災体験;心の触れあい

 突然、このページに出会い、当時を思い出しています。
 奈良に住み、大阪に勤める私は、自宅に大した被害もなかったので仕事関係の安否確認が済むと、建築学会、建築家協会の主催する震災被害度調査のボランティアに参加し、被災した家屋の中で何をしたら良いのかわからず不安に過ごしている人たちへのアドバスに駆け回りました。
 まさにアドバイスであり、話を聞いてあげるだけの事しか出来ず、建築家としては、何一つ出来ずに心苦しい毎日でした。出来るだけ正確な判断をと考えると、逆に不安を与えるだけで、むしろ心の休まる話を出来るだけしてくる事が精一杯だったと思います。
 あの時会った人たちは今どうしているでしょうか。今の日常の中より、間違いなくあの時の方が、人の優しさや親切に多く触れ合えたのは、なぜでしょうか。
 先生は、かつて神戸労災病院に勤めていたそうですが、私は、今その病院の建て替え計画を担当し、改築工事の現場も担当しています。又、他の同僚スタッフは、新長田地区の復旧と再開発を進めています。どちらも大変に難しい計画で、つい技術的な、或いは、行政的な理由が先行しがちになります。今一度、あの震災の中から立ち上がってきた住民の方々の事を思いながら、日常に流されないように気を引き締めて行きたいと思います。ご健闘を祈っております。

1997.12.31 Accepted from 鈴木 昭
fwgj3760@mb.infoweb.or.jp

投稿No.4 未だ直視できない震災;ジャズシンガーより

  私は現在は東京に住んでおりますが、震災の折りは主人の転勤で兵庫県西宮市に住んでおりました。西宮にはちょうど5年間おり、その最後の年にあの阪神大震災に遭遇し、震災の年の夏、被災地に心を残しながら、また転勤で東京へ戻りました。いわゆる転勤族の家族でございます。
  昨年2月にジャズ関係のホームページを立ち上げた折り、随筆というかたちで「神戸・西宮への思い」という一文を掲載し、音楽に携わる者としての立場から震災時に感じたことなどを書きましたが、それ以来、震災のことにはほとんど触れることなく過ごしてまいりました。
 実は、震災当日から2か月ほどの間、様々な出来事や感じたことなどを書きなぐったノートが5冊ほどありますが、書いたきりその後開いて見ることもなく、封印してしまいました。震災関連の出版物も、数万円分買い込んだまま、大部分が今だに未読です。いつかまとまったものを書かねばと思いながら、気持ちが落ち込むことが恐ろしく、とうとう3年たってしまいました。インターネット上には、震災関連のたくさんのホームページがあることも知ってはいましたが、それもあまり見ないようにして暮してまいりました。震災からちょうど1年目の日、2年目の日、それぞれにいろいろな思いが去来しました。もうすぐ3年目を迎える今、ようやく何か書こうという気持ちになりましたが、考えはまだよくまとまりません。封印したノートを開くことさえ、まだ出来ずにいます。被災体験を持つ者の一人として、何かをしなくては、何かを伝えなくてはと思うばかりで、今だになにをどう書くかコンセプトがまとまらず、混乱したままです。取り敢えず、と言ってはなんですが、ホームページの「筆者近況」というページに、3年目を迎えようとしている今現在の心境を書きました。震災のことを少しでも多くの人に知ってもらいたいという気持ちは、ますます強くなりました。

1998.1.9 Accepted from K.Hatanaka
kumi-h@ba2.so-net.or.jp
随筆「神戸・西宮への思い」

投稿No.5 北の果てから

震災日記拝読しました。息子も震災後の神戸へ赴任いたしました。学友も未だに仮設住宅住まいです。福井先生ホ−ムペ−ジ作成お疲れ様です。
 日本の北の果ての小さな街で先生のホ−ムペ−ジに涙している者が居ること忘れないで下さい。

1997.1.13 Accepted from Hokkaido
mieko_shirakawa@gkt.kitami.hokkaido.ntt.co.jp/

投稿No.6 震災医療の経験;あるナースから

メール1

 後少しであの日から3年ですね。早いですね。私は、あの時兵庫区内の病院に勤めていました。まるで地獄のような日々でした。(精神的に)

 病棟勤務でしたが、通勤者の多い外来ナースが出勤できなかったので私は、整形外来に応援にいきました。背中に熱傷を負った老人、骨折の人(多分、というのは、水がなっかったので、レントゲンで確認できていない。)などなど・・。報道では、復興の面が多く、オンエアーされています。今、東灘区内の病院に勤めていますが、患者さんの多くは仮設にすんでらっしゃいます。本当の復興はまだまだ、が現状ですね。(Accepted on Jan.9 th.1998

メール2

 いよいよ明日で3年ですね。きっと今年も眠れない。丁度、準夜明けなので、そのまま起きてそうな気がします。寝れないです。今でも少しの揺れを感じるとこわいです。PTSDにはいたってはないですけど。でもこの日だけはねれない!!わたしです。はい。

明日は起きてて、黙とうをします。それではおやすみなさい。

 1998.1.16 Accepted from K.Yamatu
keiko-7@muj.biglobe.ne.jp

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