"NEVER FORGET HANSHIN EARTHQUAKE" (6K)written by T.Fukui 1998 (c)
FOR MIDPLUG [YAMAHA]

SORRY ,THIS PAGE IS NOT TRANSLATED IN ENGLISH YET.

私は神戸市北区に住んでいます。長田区細田町のビルに平成4年に診療所を開設しました。やっと経営が順調になりだした頃、今回の震災を経験しました。いままで振り返る気がしなかったのですが、もうすぐ3年が経とうとしている今皆さんと一緒に阪神大震災をみつめたいという気になりました。このページは、思い出せる限りの私の震災記録です。

1997.11.29

1995.1.16(震災前日)

夕飯のまえ、リビングでくつろいでいると地底からズズンと重低音が深く短いエコーを伴って体にしみこんだ。気づいたのは家族で私だけだった。今までめったに地震はなかったが、最近故郷の猪名川町で群発地震が話題になっており心配していた。音の深みが気になったので飼っている金魚の様子を見たが、なにも変わりはなかった。テレビをつけて地震の速報がでるかなあと待っていたが何もでないので気にとめないことにした。

1995.1.17 5:46AM 長い一日のはじまり

 まだベッドで眠っていたが、突然ぐらぐらと左右に寝室が揺れ始めだんだんひどくなった。おさまるかな、と思ったら次に上下にずんずん突き上げられ、部屋の隅がゆがんで大きく動き、部屋が壊れる!と思った。風呂の掃除をしていた家内が階下から子どもの名前を叫びながら階段を昇ってきた。私は大声で動くな!とどなった。一段落したので子ども部屋にかけ込んだが子どもは無事だった。階下に降りると本やビデオ類、水槽の水が散乱していた。電気はつかず、ラジオもないので何が起こったのかまだわからなかった。家の外にでてみたがシーンとして誰もでてこなかった。家族全員で愛車のボルボに避難した。ラジオが聞けるし、電気もあるし安心感もあったからだ。ラジオではまだ地震があったことくらいしかいっていなかった。アナウンサーが携帯電話で局にかけてきているのを流し始めた。「阪神高速道路が倒れている・・・」と聞こえた。まだ信じられなかった。

 明るくなってきたので家族をうちの中にもどした。まだ余震が頻繁にある。私は仕事にいけるものかどうか、いったい何が起こったのか調べるために新神戸トンネルの入り口に向かった。6時過ぎだった。料金所に係員がいなかったので気味が悪く回りを一周してみたが、山が崩れて道が通りにくくなっていた。意を決してトンネルに入った。まず家内の実家のある中央区に向かった。信号はついておらず、車もほとんど走っていない。家内の実家は高台にある。建物が無事なのをたしかめて、景色を見渡した。不気味な静けさがあり、あちこちから煙りがあがっている。2001年宇宙の旅でみた人類の曙のような光景だと思った。ただ尋常ではない、尋常ではないと頭の中でつぶやいていた。

1997.11.29

 7:40AM

 三宮から長田に向かおうとしたが、三宮はビルの倒壊が激しく、倒壊した家屋から煙が上がり始めていた。道路も大きな亀裂が入っているので、このままひとりで長田に入ってしまうと無事に家族の元へ帰れなくなりそうだったので恐ろしくなりとりあえず自宅に戻ることにした。7時40分頃だった。道路はすいており、経験したことのない程静かであった。

 診療所の大家から電話がかかってきた。「ビルは倒れなかったから、こちらもみんな大丈夫だから、電話並んでる人が多いからもう切るから」

 0:00PM

 いったいどうしたものか決めかねたが、家内が出勤すると言い出したので(家内は北区の病院に勤めていた。)、大変な事態だから今日は休んでくれと説得し、事態を家内に把握してもらうためもあって、とにかく家族全員でもう一度長田の診療所をめざすことにした。昼頃であった。家内と子供2人を車にのせて、今度は長田箕谷線ルートでアクセスを試みた。しかし、すでに西鈴蘭台付近で道路渋滞が始まっていたので新神戸トンネルにひきかえすことにした。三宮も下山手で停滞が始まっていたが、なんとか進めそうだった。途中の光景は目をおおいたくなるほど、ひどいものでとても現実の光景とは思えなかった。大学時代からよく通ったダニーボーイというレストランも完全につぶれて判別できない状態だった。兵庫区湊川に近づくにつれ、長田方面にまるで原爆が落ちたように巨大な黒煙がたち昇っているのが見え、湊川の交差点手前で車はまったく進まなくなってしまった。(このとき、わずか50m先で上沢の火事が始まっていた。)生命の危険を感じたのでUターンできるところで引き返すことにした。

1997.12.1

1995.1.18

 昨夜からテレビに釘付けになっていた。映像は知っている場所ばかりである。一番のきがかりは自分の診療所であった。すぐ近くの診療所が炎に包まれていた。朝、私が借りている駐車場が無惨に崩れ落ちた姿をテレビで見た。もしかすると多額の借金を残してすっかり無一文になったのではないかという気がした。とりあえず、この日は家の近所の銀行でお金を引き出し、買い出しすることにした。早めにスーパーに行ってみると開店一時間前だというのに既に長蛇の列ができており、結局店に入れたときにはかうべき商品はほとんど残されていない状態だった。洗濯機を入れる大形の段ボールの箱に、いっぱいカップラーメンや雑貨を買い込んでいる人もいた。

 私の診療所が多分燃えていないことがテレビ映像からわかったので、少しほっとして、ひとりで診療所に向かうことにした。途中、テレビの映像でみた景色をみながらJR兵庫駅まで車をすすめ、高架下に車を捨ててあとは歩くことにした。

 大家のために飲み水と乾電池を用意した。自分の食料と水はリュックに背負い、ひと駅をあるいた。診療所の中はレントゲン室の現像液で水びたしになっており、机やひきだし、カルテ類それにコンピュータや検査機器が散乱していた。院長室に入り、なんとか貴重な書類だけ持ち出した。今晩燃えるかもしれないと思ったからだ。大家の一家ははビルの一階で喫茶店を経営しており、その店のカレーなどで食いつないでいた。うちへ帰る前にごちそうになった。防空壕の中にいるような気分だった。

1997.12.9

1995年1月23日、震災から6日目診療を再開した。

翌々日に投稿した原稿が兵庫県保険医新聞全国保険医新聞などに掲載された。日誌のつづきはこちらでこの原稿を紹介することにします。震災のさなかに何を考えたかこれを読むと思い出します。

1997.12.20

 guestbook


HOME