京都バルビゾン紀行 02/16/97
春の足どりを感じさせる雨音も、一段落ついた日曜日の朝、妹と京都美術館へミレーとバルビゾン派展を観にでかけた。
絵を観ながら、その感想を綴るべくポケットにHP200LXをねじりこむ。
パソコンをもって歩く必要なんてあるの?そんな疑問を抱かれる事がある。
人の気持ちはナマモノだ、しばらくおいておくと熟成されてコロコロ味がかわる。
できれば思いを感じたその時に、できるだけ早く綴っておいた方がい、一息ついて見直せば、あまりの迷文ぶりに苦笑させられる事も多々あるが…それがいいのだ、だから手放せない。
改装した京都駅にくるのは初めてだ、妹との待ちあわせ時間にはまだ間がある。
地下街PORTAをぐるっと一回りして時間をつぶす。
驚いた事に公衆電話はほとんどモジュラージャック装備のISDN電話(グレーの電話、通称グレ電)である。
通信環境がこんなに整備されているのならLibrettoも持ってきて京都からホームページ更新すればよかったと苦笑する、次回、京都訪問事にチャレンジしたい。
とりあえずHP200LX内蔵の通信ソフトData commとカードモデムを使ってNIFTY のメールでも読むことにする。
私のHP200LXは無改造マシンなので容量もかぎられている。
ログやインターネットメールは、他のパソコンから移し、外出時にNIFTYメールを読む時だけHP200LXで通信する割り切った使い方をしている。
Data commは日本語の扱いが面倒で動作も遅いという定説だが、フォントファイルをCドライブをにおいて FONT.CFGを書き換えておけば、カードモデムに差し変えて、難無くメールを読む事ができる。
お気軽で頭を使わないのが私にはむいているようだ。
雨上りの多少冷えこむ天気ではあったが、かえって空気がすんでいるようだ、気持ちがいい。
ミレー展でのお気に入りはシャルル・ド・ビーニだ
バルチザン派の絵に共通して感じた事は、どの絵にも進むべき道が示されていた事である。
日陰で構成された風景の中を、こもれ日がさしこみ絵のほぼ中央部へと進む道をさし示す。
平面でしかありえない絵の奥行きへと、観る物を巧みに絵の中へいざなう。
絵の中の景色へ招待された我々は、陰の中に隠されていた緻密な描写による物語の展開についついひきずりこまれてしまうのだ。
シャルル・ド・ビーニは全体的な色調が、他の画家に比べて淡い、明るくて、陰が無いのだ。
昼行灯では足もとを照らし出す事ができないように、道を差し示す手段は一見皆無のように思える。
シャルルはそんな難問に対して色彩の対比という形で答えを出したのではないだろうか?
夕焼けがあらわれるちょっと前、雲はプリズムにさらされ偏向された赤い光が、雲の下側を染めあげるように、淡いピンク色がシャルルの絵のなかで道標となる。
ミレーの落ち穂拾いの中にも、これから進む道が示されている。
画面中央部の白、総ての作業を終えた農婦の一団に、我々も加われるのだろうか?
こもれびの中、ミレーにあやかり風景をとどめるべく、平安神宮を散歩する。
左近の橘が香しい。
立ち木をびっしりと覆う「ちい」が空気の清らかさを物語る。
木々を眺め、その節くれだった樹皮に触れ、枝葉をのぞむ。
しょせん絵画も写真も仮想的なメディアにすぎない、本物にはかなわないのではないか?
自問自答する
絵や写真映像CGも、決して現実に代替するための産物では無い、想いを付加して表現するための手段ではないか?
あまたの絵画もきれいな風景をきれいに描いただけでは、多くの人をひきつける事はできないであろう。
私も人を引きつけるだけの想いをこめて、何かを作りつづけていきたい。
(その前に技巧やセンスを磨かなければいけませんな〜)
小学生のころ、遊ぶにつれ、暮らすにつれ思いっきり木の幹に触っててたもんですが、最近、木の幹に触れる機会も減りました、折りにふれ木々に触る機会を持っておきたいものです。