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[3] 10/APR/11

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    東日本大震災    (東北地方太平洋沖地震)

高木 泉(昭和48年卒業)

2011年3月11日午後2時46分ころ,マグニチュード9.0という日本の観測史上最大の地震が宮城県沖から茨城県沖にかけて起こりました.その直後に発生した大津波が岩手県から福島県にかけて沿岸部を襲い,多くの町が壊滅しました.東北大学にも甚大な被害が及びました.
3月31日現在,11,438人の方々の死亡が確認され,18,300人が行方不明になっています.この中には,陸前高田市にお住まいだった昭和28年卒業の東京工業大学名誉教授菅野恒雄先生や数学教室の佐藤得志先生(平成2年卒業)のお父上が含まれていることをお伝えしなければならないのはまことに残念です.また,この春から本専攻の修士課程に入学することが決まっていた明治大学4年生が亡くなられたという痛ましい知らせも入りました.ご冥福をお祈りいたします.
現在,数学教室は,北青葉山キャンパスの数学棟(1979年完成,5階建),数理科学記念館(1990年完成,2階建),合同棟(1997年完成,12階建)の3棟に教室,セミナー室,研究室をもっています.合同棟は,理学研究科と生命科学研究科の教員研究室,教室,セミナー室,実験室,事務室などがあり,数学専攻は,5階の約半分,6階の一部,そして,7階,8階,11階,12階のほぼすべてを使っています.理学部キャンパスでは,2003年度より,地学棟,生物棟,化学棟(2008年完了),物理A棟(2010年完了)と耐震改修工事が行われ,数学棟を残すのみになっていました.キャンパス内の建物は倒壊するようなことはありませんでしたが,内部は本棚,キャビネットなどの什器が倒れ,本や書類,実験器具,測定器などが落下し,また,壁や梁のモルタルが剥がれて床に散らばりました.この惨状を見ると,そのとき理学部キャンパス内にいたおよそ1,400人に怪我がなかったのは奇跡としか言いようがありません.
数学教室では,地震直後から電子メイルにより,また3月15日頃までにはほぼ回復した電話により,手分けして学生の安否確認を行いました.最終的には3月22日に留学生を含む全学生が無事であることが確認されました.4月1日から,住居への被害状況などを中心とする調査を開始しました.
理学研究科では,建物のみならず,土地が受けた損傷も調査しています.液状化した箇所はないようですが,地割れが起きているため,斜面が崩落する可能性を心配し,詳しい調査を急いでいます.

地震直後より,数学教室同窓生から,無事を知らせる,あるいは安否を心配する連絡が入っています.(敬称略)

本ページにおいて,地震直後から復旧作業が軌道に乗り始めるまでの3週間ほどの間の出来事を直接体験した範囲で随時記録してゆきたいと思います.なお,本稿は,不確かな記憶に基づいてとりあえず書き留めておき,後に修正することがあることを予めお断りしておきます.仕事の合間を縫って少しずつ書き進めていくために,やむを得ないことと,ご容赦ください.(2011年4月1日)

(1) 第1日午後 (2011年3月11日金曜日)
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その日は翌年度の「数学セミナー」のテキストの選択に関して3年次学生小森君と相談する約束になっていました.川井ホールのセミナー室で彼を待つ間,新しい MacBook Air に Skypeをインストールしていました.4月に予定していた海外出張のためです.その作業が最後まで終わる前に,小森君が現れ,セミナーのテキストについて相談し,そのコピーを渡すことになりました.生憎,他の学生がとってくれたそのコピーは,合同棟の5階の研究室に置いてありました.もし,予定通りコピーをすでに川井ホールに持ってきていたら,今回の地震に対する印象も随分違ったものになっていたことでしょう.
合同棟5階の研究室で Chicone 著 "Ordinary Differential Equations with Applications" の第1章のコピーを小森君に渡し,二人で部屋を出ようとしたところでした.はっきりとした初期震動があり,大きな横揺れが始まりました.二日前の午前11時45分ころにも同じような地震があり,そのときは合同棟の3階の廊下で立ち話をしていました.まずは出口の確保のためにドアを開けて廊下の様子を見ました.誰も出ていません.すぐに一昨日の地震よりも大きいと感じました.開けたドアを腰で支え,両手でドア枠をつかみました.とにかく何かに掴まっていないと姿勢が保てない気がしました.ふと室内を見ると小森君は大きなテーブルの縁をしっかりと掴んで身動きできないようでした.「地震は30秒」と何となく考えていたので,この地震もじきにおさまると思っていましたが,揺れは弱まることなく,いつまでも続きます.一瞬弱まったかと思うと,すぐに同じような強さに戻ります.5階でこの揺れだから,もっと高い階では大変な揺れだろうと思いましたが,それよりも,余りに長く続く揺れに建物が耐えられるだろうかという不安がずっと強くなりました.倒れるまで揺すり続けるつもりかと思うほど,強い揺れは続きました.このように長く続く地震は初めてです.テーブルの上に置いてあった Apple Cinema Display が二つ,ゆっくりと落ちていくのを眺めるしかありません.それでも,揺れは終わり,二人で廊下に出たところ,CRESTの事務を担当している女性が出て来きました.知った顔をみてほっとした表情を浮かべ,一人きりであの揺れに耐えていた怖さを語りました.合同棟には,東側と西側に階段がありますが,研究室は東側の階段に近いので,そちらに向かいました.歩き始めて一瞬別の建物にいるのかと錯覚しました.この建物は,東端から階段,エレベータと並んでいて,階段に向かって歩くとまず左側にエレベータがあるはずですが,エレベータは見つかりません.歩き始めるとすぐに防火扉にぶつかり,ドアを開けてその向こうに進んでも左側にあるはずのエレベータが見えません.その先に階段がありました.そこに到達して初めてエレベータも防火扉で隠されていることに気づきました.階段に進む前に,外を見ました.大勢の人が下から建物を見上げています.こちらも目が届く範囲で上を見ましたが,何も異常は見えません.とにかく建物を出ることにして階段を下りました.
理学研究科では,毎年秋に防災訓練をしています.特に,近いうちにほぼ確実に宮城県沖地震が起こると言われるようになったこの数年は,火災よりも地震を想定した避難訓練をしていました.昨年は10月1日に実施しました.緊急地震速報を鳴らし,各自指定された集合場所に避難し,安否確認をする,と言うものでした.訓練終了後,備蓄品である飲み水を配布しました.簡易トイレの設営まで行いました.訓練のときは,わたくしは川井ホールにいたので,集合場所はすぐ隣にある「北青葉山憩い公園」(理学部と薬学部の敷地の間にある松林の木を切り広場としたもの)でした.合同棟にいた場合の集合場所についてはよく承知していなかったので,すでに合同棟から退避した人々の一部と一緒にとりあえず憩い公園まで行きました.訓練どおり,数学事務室の人たちが安否確認をしていたので,無事であることを報告して,憩い公園周辺にいました.合同棟にいた数学専攻の大学院生たちも続々と集まって来ました.
揺れがおさまってから,30分も経っていなかったと思いますが,川井ホールの様子が気になり,入ってみました.2階のセミナー室の時計が壁から落ちていました.研究室もキャビネットの引き出しが開いていたり,無造作に置いてあったものが落下していました.1階は講師控室の壁掛け時計が落ちていました.それ以外は目立った被害はなさそうでした.ファンヒーターの電源プラグが抜かれていることを確認して,そこを離れました.憩い公園に戻ると小森君がコピーを合同棟に置いて来たことに気づきましたが,いまとても取りに戻る気にはなれません.川井ホールに戻り,研究室に置いてあった Chicone の本を持って来て小森君に渡しました.
(2011年4月3日記)
(2) 第1日夕方 (2011年3月11日金曜日)
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写真からは,川井ホール1階の講師控室の時計が落下した時刻は2時47分か48分と思われます.実物をみたときは,47分と見えたように記憶しています.これは電波時計なので正確な時刻をさしているはずです.
さて,数学専攻では,事務主任の信坂さん,雪江先生と中村先生が中心になって安否確認を進めました.そのうちに,雪がちらほら降り始めました.ふと気づくと博士課程学生の工藤君は上着もセーターも着ていません.それこそ命辛々逃げて来たその姿に思わず寒くないかと訊ねてしまいました.生物棟の前に災害本部が置かれ,理学部キャンパスの安否確認の結果が報告されます.様子を訊ねると,怪我をした人はいない模様ということです.ただ,前回の宮城県沖地震で火災を発生した化学棟のことが気になっていました.正確なことは分かりませんが,おそらく4時頃には災害時に備えてあった水と乾パンの配布が終わり,教職員と学生たちが帰宅し始めました.自家用車で通勤している者は同じ方向に帰宅する同僚を乗せ,長い渋滞の列に加わっていきました.徒歩で山を下りようとしている学生たちには,複数で行動するように声をかけました.
当然のことながら停電となりましたが,発電機を動かし,管理棟に電源コードを引き込みました.管理棟の2階,研究科長室の向かいにあるミーティングルームに評議員,副研究科長,事務部長,総務課長,などが集まり,ヘッドクォータとなりました.出張中の研究科長は新幹線の中に閉じ込められていることが伝えられました.ミーティングルームの窓からは,雪から小雨となり日が射すかと思えば,また曇るという具合に目まぐるしく変わる天気の中で渋滞する車の列がいつまでも見えました.非常用の手回し発電式のラジオから流れる緊迫した声は覚えていますが,話された内容は思い出すことができません.隣接する事務室でもテレビをつけていたはずなのに,何を目にしたのか覚えていません.確か,最初マグニチュードが7.8と発表されたが,直に8.2とかに修正されたようです.来る来ると言われ続けていた宮城県沖地震がとうとうやってきたのだとわたくしは思っていました.とりあえず,情報収集のためには,MacBook Airを充電することが最も重要なことと思い,発電機から延びている電源コンセントにつなぎました.その時点では,b-Mobile の WiFi でインターネットに接続することができました.今後のことを相談すると言っても,すぐにできること,しなければならないことは殆どなく,連絡のためにその場にいた人々の携帯電話の番号をホワイトボードに書き出し,午後8時前には帰宅することになりました.自宅までは 12km,徒歩で2時間半程度です.幸いにも車で来ていた早坂先生が送ってくださると仰るのでお言葉に甘えることにしました.管理棟を出て,早坂先生が駐車場から戻るまでの間,周囲の建物の灯りが消えた中に中央広場の太陽光発電による街路灯の青い光によって幻想的な光景を浮かびあがるのを眺めていました.この街路灯は3年前,低酸素社会への移行が呼びかけられたとき研究科長の発案により設置されたものです.写真では,数学棟が背後にあり,赤い非常灯が写っています.
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さすがに,この時刻には青葉山キャンパスから車で帰宅する人は殆ど残っていませんでした.川内のテニスコート裏の桜並木を過ぎ,亀岡の交番の前を左折して,すぐに亀岡北裏丁のラーメン屋のところを左折したところから渋滞が始まりました.川内三十人町の道に合流し,牛越橋をわたり,国道47号線八幡五丁目の交差点まで40分かかりました.普段は車で5分か6分の距離です.ここまでで最初の信号がこのT字路交差点です.右手には,大学病院八幡町経由の定義行き市営バスが見えます.交差点では,互いに譲り合って秩序よく車が入り,出て行きます.先を急ぐ車があちこちで接触事故を起こしているものと思いましたが,皆冷静だと分かり安心しました.八幡町から国見に右折すると真っ暗でした.対向車も殆どいません.そこからは普段と同じように20分ほどで自宅附近のバス停に到着しました.途中の大きな交差点は北環状線のジャスコ中山店のところですが,そこも無事にわたることができました.方向転換が易しい場所で降ろしてもらい,街灯も消えて真っ暗になった道を自宅まで 2, 3分の間歩きました.
帰宅すると,次女が自作の手回し発電式の懐中電灯を使って室内を照らしてくれました.家内は,地震が起きたとき,自宅にいたが,揺れがおさまったころ,山形にいる長女から電話があり,互いの無事を確認し合ったこと,高校にいた次女を4時過ぎに車で迎えに行ったこと,次女は授業中に揺れ始め,机の下にもぐったところ,本棚がすぐそばに倒れてきたこと,などを話してくれました.地震直後は電話が通じたことは後で多くの人が話していました.頂き物の2リットルのミネラルウォータが10本ほどあること,風呂に水を張ってあったこと,冷蔵庫には食べ物が十分あること,など数日間の生活には困らないことを知らされ,少し落ち着いてきました.2階の書斎からラジオをとって来て,ニュースに聞き入りました.大きな津波が地震直後に襲ったこと,町の大部分が水没したところがあることなど想像を絶したことが起きているようでした.しかし,津波に襲われたと言われる地名の大部分は,これまで津波と関連づけて話題に上ったという記憶のないものでした.津波は押し寄せて,引くものと思い込んでいたので,津波のせいで町が水没するというのも信じられないことでした.
こうして,生まれて初めて直面することばかりに圧倒されながら,毛布にくるまって眠ってしまいました.
(2011年4月10日記)



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