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王家のクライシス 10/31/98

今日はきしざる関係で京都の菅浩江氏宅までピザを食べに行く。え、ピザがメインやなかったんですかそうなんか。田中啓文氏はピザを食べるのは生まれて初めてだ、などとなぜそんなことを言うのか、言ったからどうなのかさっぱりわからないような嘘を連発して毎度のことながらよくわからなかった。牧野修氏は牧野修氏で「ちょっと車にノルウェー」とかべたべたなことを連発してやはり毎度のことながらよくわからなかった。しかし珍しく収穫であったのは、大石内蔵助(普通こういう字を書かんか蔵之介てあんた。/ふえたこワールド参照)の文字を並べ替えると「王家のクライシス」となるというやつで、そもそものきっかけはどこぞの蔵をあけたら酢と石がどばっと出てきて、これがほんとのクライシス、というようなものであった。ま、おう、と、おお、の差があるのでちょっと苦しいかな。O家のクライシスではどうか。

いやしかし菅さんとこの赤ちゃんはほんまに可愛い。ぼくは基本的に子供が嫌いなので、赤ん坊を可愛いとかきれいだとか思うことはまずないのだが、あの赤ちゃんはきれいだと思う。なのに父親そっくりというのも笑える。

ハイディホー。


G-SHOCKを買う 10/30/98

すでに何個か持っているのだが、前から欲しかったタイプがインターネットのフリーマーケットで安くなっていたのでついつい買ってしまう。ブームがおさまったのか、限定モデルでも人気がないのは定価以下で売られているらしく、今回買ったのはAW500のPSCモデルというやつ。本当は限定ではない元のタイプが欲しかったのだが、そっちは未だにプレミアがついていて五万円くらいする。昔買おうかどうしようか迷って、結局やめたのだがそのときは九千八百円だった。百個ほど買っておいて売りさばけば一年ぐらい遊んで暮らせたのに。なに今でも遊んで暮らしているように見えるとな。そら誤解じゃ。

今回の限定モデルはベルトやベゼルがスケルトンなので、いまいち気に入らんなあと思っていたところ、ユナイテッドアローズモデル1stのベルトとベゼルも売られていた。外側をこれに付け替えたらどうかと思い時計とこれと両方買ってすぐさま付け替える。思っていた以上にいい感じである。これまではDW5600C-1Vスピードモデルのオレンジ球裏蓋200M表示(まあ普通の人にはどうでもええことですわなあ)が一番好きで使っていたが、今度のこれはかなり気に入った。(写真見ましたか。なんかちょっと望遠鏡とか双眼鏡とか顕微鏡とか、ああいう感じがしませんか。ぼくだけかなあそう思うのは)

しかしブームというのは去ってしまうと情けないもので、どう考えてもあの信じがたいブームのさなかであればこのPSC、いくら安く見積もってもプレ値五万円は下らなかったと思うのだが、ぼくが買ったのは新品で箱もなにもかも揃っているのに定価のほぼ半額だった。ベルトとベゼルを別に一式買って(ユナイテッドアローズモデルというのも、きちんと買うと、今でもたぶん十万円くらいすると思う。でも不思議なことにベルトとベゼルだけなら大変安いのだ。)送料など除くと、結局今回この時計一万五千円ほどで買ったことになる。G-SHOCKは昔から好きだが、ダイエーへ行くと普通は三割引で売っているものなので定価以上出して買おうなどとはまったく思わず、まあこんなもんだろう。


明石原人になんとなく興味のある会 10/29/98

京大SF研の人からメールをいただいたのだが、この人は高校生のときぼくの大久保町シリーズを読んでわざわざ名古屋から大久保まで来たというものすごい変な人で、その人が今「明石原人を愛する会」というのを作って会員を募っているのだが、どうしても集まらんのだという。そりゃ集まらんやろなあと思う。どうしましょうというので、とてもではないが普通の人間が明石原人などというようなものを「愛する」のは無理な話であるから「明石原人になんとなく興味のある会」ぐらいにしておけばどうだろうと返事を出した。言っておくが正真正銘のこれは冗談である。しかし、真面目な人なのかなんなのか、本当に名称変更するのだそうだ。もうひとつの案として「スキースノーボードテニスゴルフ明石原人サークル」というのにすれば、よその学校の友達の少ないお姉ちゃんも入ってくれるかも、と書いたのだが、さすがにこれはやめたらしい。

しかし野尻抱介氏もホームページに、今「明石原人」がマイブームだと書かれているくらいで、もしかすると来年あたり明石原人はブレークするのではないかと思い、ぼくも野尻さんの掲示板に明石原人のことを書き込んだのだが、まったく誰からもなあんの反応もなかった。やっぱりあかんぞ。


Wヤング 10/27/98

喜多哲士氏のホームページに『大久保町の決闘』『大久保町は燃えているか』と続いて読書感想文が載ったので喜び、そのまま喜多さんのホームページをいろいろと読んでいるとWヤングを再評価せよというのがあって感動した。ぼくも常々そう思っていたのである。あんなおもろい漫才はなかった。「笑える」という点ではぼくがリアルタイムで見た漫才史上最強であったと断言できる。なにかというと「やすしきよし」とみんな言うけど、ぼくは正直なところ物心ついてこのかた、テレビで漫才を見つければ必ずその番組を終わりまで見るという人生を送っているのに、やすしきよしの漫才をおもしろいと思ったことは一度もない。つまらないとは思わなかったが、それほどおもしろいとは今でも思わないのだ。しかしWヤングは毎回爆笑していたような記憶がある。その名が語り継がれていくような漫才師にはあるときとてつもなくおもしろい時期があって、その旬のようなものを逃すといまひとつ笑えなくなるというようなことがあるので、おそらくぼくは、やすしきよしの旬を見逃したのだろうとは思うが、なぜ今あれほど評価されているのかはやはりよくわからない。ダイラケと並べるのはどうかと思う。笑いの質が違いすぎる。

喜多さんは今の平川師匠の相方である佐藤兄さん(たいていみんな「マルにい」と呼んでいましたが)の間が悪いと書いておられるが、ぼくは今のWヤングも好きである。たしかにかつての死にそうになるような笑いはないが、それでももっと評価されていいのではないか。Wヤングの弟子にミモ・ファルスという三人組がいて(もう解散してしまった)その人たちを含む「平川ファミリー」には吉本時代いろいろお世話になったので、なかなか客観的に見られなくなっているのかもしれないが、やっぱりぼくは今のWヤングの漫才も好きやなあ。バックもできまっせ。

死ぬほど笑えたというのであれば、ひところのサブロー・シローもめちゃくちゃおもしろかったがなあ。惜しいなあ。実際このところめちゃめちゃおもろいなあ、というような漫才にはとんと巡り会っていない。こだまひびきもカウスボタンもめちゃくちゃ好きやけども、いとこいさんや阪神巨人みたいに話芸として洗練された漫才も聞いていて気持ええけども、それはそれとして荒削りでもなんでもいいからもう苦しくて苦しくて疲れてしまうほど笑える漫才を聞きたいものだ。今、そういう漫才ないからな。

(今回敬称ところどころ略)


サッポロブロイ 10/26/98

ビールが、というか発泡酒がなくなったので買いにいく。サッポロブロイというのが出ていたのでおもしろがって買った。350のワンケースが2880円。キリン淡麗は2980円なので、ブロイは新製品であるにもかかわらずちょっと安いのである。それだけ淡麗は売れているということなのであろう。でもホップスは2780円。たまにセールで2680円。それだけ売れていないということなのであろう。しかもホップスは革のジャンパーまでくれるそうだ。もうすでにぼくは十二口送った。当たるといいなあ。というわけで、ホップスもワンケース買う。これでさらに四口送れる。六本で一口なのである。当たるといいなあ。

しかしこの種の発泡酒のパイオニアであるホップスが売れず、しばらく日和見して売れそうなのを確認してから出したキリンの製品が、どっと市場を独占するというのはどういうわけか。ウォークマンが画期的な小型化を果たしたのを見てから、真似して0.1ミリ小さく作って「世界最小」しかも安いやろ、みたいなのが堂々とまかり通る世の中だから、まあやったもん勝ちなんでしょう。今の世の中道徳より銭や。子供の死体売った金でも、金を持っとるやつが偉いんや。どうせ俺なんか犬以下や。虫けらや。ミミズの糞や。ぐあああ。

それはそうと、さっそくブロイを飲んでみたところ、その芳醇な香りと適度な刺激のある舌触りのどうのこうのと書ければいいのだが、はっきり言ってさっぱりわからん。みんなおんなじ。ぼくはもともと味に関してめちゃくちゃずぼらなのである。そもそも飯を食うということに対してあまり意欲がないので、ときどき食うのを忘れるし、一錠飲めばカロリーも栄養もばっちりというような錠剤が発明されれば、三食それですませたいと常々思っているほどなのだ。というようなことをずっと昔ふと話したところ、その頃学生オーケストラでバイオリンを弾いていた女の子に「それはとても不幸ね」と悲しい目をされ、だめ押しのように「あなたはそれでいいかもしれないけど、わたしたち芸術家はグルメでなくては駄目なのよ」みたいなことを言われた。なぜか、という理由は最後までわからなかった。あの女の子、今ではさぞかし太ったおばはんになってワインの講釈を垂れ散らかしていることだろう。まあ芸術家は食い意地がはっていなくては務まらぬというのを七万歩譲って認めたとしても、だいたいあなた学生オーケストラごときのなにが芸術家。へっ。


いろはかるた 10/23/98

ひょんなことから仲間にしてもらっている、というか引きずり込まれている明石市の町おこしグループみたいなところの集会に出席した。毎回、いろんな人を講師に招いていろんな話(風船で犬を作る方法とか映画業界の裏話とか福祉の裏話とかいろいろ)を聞くのだが、今日は講師はなくお題は「明石いろはかるたを作ろう」ということで、みんなでいろいろ考える。

ぼくは明石に対してさほど愛着がないので、適当に作ったのを持っていった。全部は無理なので、思いつくところだけである。

い いつもすいてる博物館(いつ行ってもがらがら。展示もすかすか)

に 鶏の死体ぷかぷか江井ヶ島海水浴場(あと定番の西瓜の皮と浣腸も)

む 無理してでも配るイカナゴの釘煮(二月頃、明石のおばはんたちは必死で釘煮を作る)

の 覗く方がアベックより多い明石公園(覗かれない穴場もぼくは少なくとも五カ所知っています)

お 落ちたら死ぬぞ天文科学館の展望台(絶対死ぬ)

ふ 節はめちゃくちゃカリオンの鐘(駅前できんかん鳴るが、音程がめちゃくちゃ)

ひ 肘がぐにゃぐにゃ時打ち太鼓(見たら笑いますぞ)

怒られるかと思ったが、けっこううけた。

しかし今回一番うけていたのは、たぶんぼくの友人で明石第九合唱団(年に一回ベートーベンの第九を歌う合唱団。毎年第九だけを歌う。ほかのことはしない。楽しいのでしょうか)の広報担当をしている人が作ったやつだと思うのだが、

き 菊水盆も休まず

というやつであった。菊水というのは明石では有名な高級寿司屋。二種類あって、明石市民の通説としてはこっちが本物であっちはちょっといかん、というのがはっきりしているが、どっちがどっちなどとはここには書けん。めちゃくちゃ高いので、何度か(本物だと言われる方に)人に連れられて入ったことがあるだけである。また誰か連れていってくれんかなあ。


ロケット 10/22/98

久しぶりに図書館へ行き、ロケット関係の本を数冊借りてくる。書き始めたショートショートに必要な知識を得るためである。野尻さんの掲示板で質問すれば、たちどころにものすごいことがたくさん教えてもらえるのではないかとは思ったのだが、あまりに初歩的なことであるし、そもそもどのように訊けばいいのかもわからず、無知をさらけだすのが恐ろしくて我慢した。しかも、そうしたことを調べて書こうとしている話が、これがまあひたすらアホでアホでアホな話なのである。人力のみで**を**に**しようとする話である。なにわけわからん。あたりまえじゃわからんように書いておる。でもまあボツになるかもなあ。あまりにもアホやと自分でも強く思います。大変気に入ってはおりますが。

数日ぶりに実家へ帰ると大森望氏からルーディ・ラッカーの『時空ドーナツ』(ハヤカワ文庫)が届いていて狂喜する。すぐさま読み始め、そこでふと前述の書きかけのショートショートの手法について思いつく。一気にラストまで頭の中でできあがってしまい、ふたたび狂喜する。『時空ドーナツ』の内容に触発されたのでは全然なくて、本の装丁、匂い、手触りなどから過去の記憶がよみがえり、そうかあの手があったかと思い出したのではあるが、これはやっぱり『時空ドーナツ』のおかげやなあと思うのである。


月亭八天落語会 10/19/98

田中啓文氏といっしょに八天さんの落語会に行く。落語会と言っても風呂屋の二階で二十人ほどの客しか入らない小さなものなのだが、今日は桂三歩さん、桂吉弥さん、それに東京から橘屋蔵之助さんという人が来ていて、木戸銭1000円はものすごく得をした気がする。終わってからは、この人たちといっしょに中華料理を食べに連れていってもらう。八天さんとは吉本時代いっしょに仕事することが多かったので、こうして今でも相手をしてもらえるのだが、大変ありがたいことである。ぼくは橘屋蔵之助さん、ものすごくおもしろかったが啓文さんはそうでもなさそうだった。あの人とは気が合わん。

そうそう。電車に乗る前、明石のジュンク堂へ行き父親に頼まれていた本を探したがどこにもなく、やっぱり近所に大学のない本屋は漫画と雑誌専門に落ちぶれてしまうんやなああかんなあと嘆き、例の電撃文庫五周年のノミネートに対するコメントを見るべく、わざわざひとつ上の階へと上がって(そうです電撃文庫は漫画と文房具の階にあるのです。つまりあれは書籍よりもホッチキスやお手紙セットに近いものなのです)電撃文庫を数冊手に取り、中の挟み込みを物色してなんとか自分のコメントを読む。たしかに浮いておった。ひとりアホである。しかしそれよりも驚いたのは、大久保町シリーズが電撃の棚に一冊もなかったことで、どういうことやと憤り、この本屋ももう落ちるとこまで落ちたなあ、もうどうしようもないなあキオスク以下やなあとぶつぶつ言いつつふたたび一般書籍の階へ降りたところ、そこの新刊コーナーに三冊揃ってどばっと平積みになっていた。めちゃめちゃ前に出た本なのに。なんで今頃。しかしジュンク堂というのは前々から思っていたが非常に高尚な思想に裏付けされた確かな品揃えに本屋とはかくあるべしという理想がうかがえて単なる本屋以前にこれはもうすでにひとつの学術的存在として成り立っているのだなあと感心した。嬉しかった。


実家で仕事 10/16/98

雨がひどいので夕食のあとそのまま実家で仕事をした。けっこう進んだのでそれはよかったのだが、実家に置いてあるPowerBookDuo280というやつの液晶の四隅がだんだん黒くなってきて、しまいには大昔のテレビみたいな状態になってしまって気持ち悪い。スイッチを切ってしばらく放っておくとなおったが、すぐにまた黒くなる。この機種の液晶はアクティブモノクロとかいって、使いやすいがそのうちこういう状態になると聞いてはいたものの、実にうっとうしい。捨ててしもたろか、と思った。

そういえばニフティのフォーラムにこのDuoシリーズ専門みたいなところがあって、ちょっとした分解方法についての質問を書き込んだら「そのような訊き方(よほど馬鹿だと思ったらしい)をする人には、こんな複雑で困難で危険な作業をする資格はありません。絶対手出しするべきではありません」みたいなことを書かれて頭に来たことがある。他の人に訊いたら、別に難しくもなんともなく簡単にできたので、腹立ち紛れに「あんなことくらいなら猿でもできる。手出しすると死ぬかのように脅してきた変な馬鹿がおったがみんな心配ないから阿呆は無視してどんどんやれ」というような意味のことを穏やかに書いたところ、反応はまったくなかった。あんなことしかし面と向かって言われたら逆上してしまって絶対その場で殴り倒す、と言いたいところだが、今ふと思ったのは、たぶんその瞬間というのはまさかそんなこと面と向かって言うはずがないと思ってしまってへらへらしているのだろうなあ。

というのは、以前某出版社の忘年会みたいなパーティーに呼ばれたとき、その二次会でとある作家といっしょに飲んでいて、そこへ来た初対面の編集者の一人が「私は田中さんのことはよく知らんのですが」と断ってから、その作家のデビュー作を激賞しはじめたことがあった。それは別にいいのだけどぼくよりもずっと若いその作家がぼくのことを冗談半分に「田中先生」と呼んでいるのを耳にするやその編集者は「***君ともあろう人が、このような凡才非才の無能作家ごときを先生などと呼んでは絶対にいかん」という意味のことを、若い作家に強い口調で言ったのだった。そのときはぼくはへろへろに酔っていたし、いくらなんでも目の前で言うのだから、えーとたぶん、どういうことなのかなあ、あはははは。と笑っているだけだった。

今でも、聞き間違えたのかなあ別の意味だったのかなあと、よくわからなくて腹が立たないのだがどうなんでしょう。ずいぶん前のことだが、田中啓文さんに「なんかそんなん言われたんですわ」と教えると「なんで怒りまへんねんっ」とえらく怒っていた。

というようなことを思い出していたら野尻抱介氏から、このホームページをリンクしたと連絡をいただいた。大森望氏のホームページからもつい先日リンクしていただいたところで、相次ぐ巨大サイトからのリンクに、嬉しいもののちょっとびびっている。辺境の過疎の農村に突如新幹線の駅と飛行場ができたような気分である。そろそろカウンターの数字を増やさねばなるまい。


おお 10/15/98

おおもう十五日。なんともう十月は半分も過ぎたのか。わしはこの二週間なにをしておったのか。なぜ十一日とか十二日だとまだまだ今月も長い楽勝楽勝と思うのに十五日になると半分もなくなった気がするのだろう。いや本当になくなっておるのだ。えらいこっちゃがな。こんなん書いとう暇あれへんがな。くそっ。また蚊が。


蚊とオートバイ 10/13/98

夏のさなかにはほとんどいなかったのに、今頃になって仕事場に蚊が発生した。一匹や二匹ではなく五匹くらい発生した。なにか脚が痒いなあと思いながらワープロを打っていて、ふと見るとふくらはぎや足首のあたりなど全部で十カ所くらい腫れている。ぎょっと叫んであわてて古いふるいムヒを塗ったが、それから身もだえするほど猛烈に痒くなってきた。実家の方は山の中にあって、これはもう蚊の巣の中に住んでいるといってもいいようなところなので、向こうで暮らしていると一日に十個くらいは簡単に蚊に刺される。そのおかげでいくら刺されても今では二三時間もあればきれいさっぱり消えてなくなるものの、それでも刺されたあとしばらくは痒いのである。しかもこの時期の蚊はやたらとちょこまか速く飛ぶので殺しにくい。ちょいと刺してはさっさと逃げる。仕事場には蚊取り線香もベープもない。めちゃくちゃいらいらする。なんとしてでもこの手でぶち殺してやろうと決意し、今日の午後はそればかりに熱中していた。三匹叩きつぶすことに成功したが、まだいるようである。ちくしょうちょこまかしやがって。

ちょこまかしてうっとうしいといえばオートバイである。あいつらはなぜ車の左側から平気でひょんひょん追い抜いていくのか。行列に割り込む大阪のおばはんみたいなことをして情けないとは思わないのか。あたりまえみたいな顔をしているが、こせこせと前に出たいのであれば人の残飯食うようなもうしわけない顔ぐらいするべきではないか。抜くなら右側から抜け。抜いたら前でひょろひょろせずに百キロくらい出してさっさと行ってどーんとぶつかって一人で死ね。だいたいあのだだっぴろい猫背のスーパーマンみたいなハンドルはなんなのだ。檻の天井にぶらさがる猿みたいな高いハンドルはなんなのだ。なんでみんなそろって昔のドイツ軍みたいな格好するのだめちゃめちゃカッコ悪いぞ君たち。それからなあ原付のおまえ、おまえやおまえ。そうやおまえや。おまえはヘルメット被るならちゃんと被れ。被りたくないのであれば正々堂々なんにも被らずに走ればよいのだそれを首の後ろにぶら下げるようなことをして、警官に咎められたらいやちゃんと被ってましたよなどと蹴られた弱虫犬みたいに涙溜めていいわけするつもりであろうがいじましい。怒られるのがそんなに怖いのなら違反などするな腰抜けのらっきょちんこめ。くそっ。また蚊が。


祭 10/11/98

昨日今日とそこらじゅう祭だらけで往生した。今日など昼過ぎどんひゃらぴーと外がやかましいので便所の窓から顔を出すと、下の道を大量の天狗と山伏がトラックの荷台に乗って移動していくところだった。なんじゃこりゃとびっくりして思わず「わっ」と声を出してしまったら天狗の一人に見つかり、手を振られた。恐かった。

田舎の祭は大阪天神祭や神戸祭なんかとはちがって、見物客というのはほとんど存在せず、人出のほぼすべてが参加者である。ぼくが普段仕事場と実家の往復に使っている道は車一台通るのがやっとというような狭い田舎道で、この道が法被を着た男衆に埋めつくされてしまう光景は異様としか言いようがない。車が来ようがバイクが来ようが、それらもすべて祭に参加しているのだと法被のおっさんたちは思っているらしく、まったく道をあけようとはしない。だらだら歩くスピードに合わせて、車もバイクも自転車のぼくもゆっくりゆっくりついていくしかないのだった。

昨日はそれでもまだよかった。今日の夕方は祭も終わりに近づいており、法被の集団はへろへろに酔いつぶれていたのである。若い連中は大きな声を出して歌を歌い、小突き合ってふざけ、道に寝ころんでゲロを吐き、ちんこまるだしでお姉ちゃんを追いかけ、酒を誰彼なしにぶっかけにくるのであった。こっちの自転車に気づくと、あきらかに部外者を見つけた目で「誰やこいつ」などと平気で言うし、ちょっとでもなにかしたら殴ってやろうという顔をする。こんなハイテンションな集団といざこざを起こしたら、ただの喧嘩ではすまないはずで気が気でなかった。えらいとこに混ざってしまったなあと逃げ道を探していると、中にはしっかりした若者もいて「こら道をあけえ自転車が通る」とでろでろの連中をかきわけてくれて、それは助かったのだがかきわけられた方はもう誰がなにやらよくわかっておらず、ただ背中を小突かれたり押されたりしたことが気に入らない。そこをぼくが通っていくものだから「押したんはおまえかこらだぼどついたろかえ」と言わないまでもはっきりそう言いたいのがわかる顔で睨みつけてくる。そのくせ、こっちが「ああどうも」と軽く頭を下げつつ通っていくと、とたんに嬉しそうな顔に豹変して「あ、お帰りですか」などとわけのわからないことを言ってにこにこ見送ってくれたのだった。しばらく行くとまた法被の集団がいて、こっちはいくぶん年嵩がいっていたようで簡単に通してくれたのだが、後方からさっきの若い集団の嬌声が聞こえてくると、たぶんぼくよりはまだ少し若いと思われる連中の一人が「ああやって騒げるうちが華やな」とため息まじりに呟いていておかしかった。枯れるにはまだ早いと思うけどなあ兄さん。

ぼくはこういう祭に参加したことがないので、地方の祭などテレビで見ていてもどことなく恐怖を感じる。小説に限らずホラーには「奇妙な風習」を扱ったものがちょいちょいあるが、あの怖さである。怖いのは怖いのだが、揃いの法被を着て公道を我が物顔に占領し、浴びるほど酒を飲んでふざけたり喧嘩したりするのは、めちゃくちゃ楽しいだろうなあと思って今日は祭の兄ちゃんたちが非常に羨ましかった。


やみなべの陰謀 10/9/98

メディアワークスのO氏より電話があり『やみなべの陰謀』は一月の新刊で出ることに決まったとのこと。ああよかった。久々の新刊。


めちゃくちゃ寝た 10/8/98

昨日起きたのは昼過ぎであったが、昼食をとって新聞を読み、和歌山のおばはんに関するワイドショーを見ていると猛烈に眠くなってきた。えらく眠いなと思ってソファに横になるとそのまま眠り込んでしまい、起きたら夜の七時頃。おおもう夕食ではないかとスパゲティを茹で、一日まだなんにも活動していないというのに夕食だからビールも飲もうと思って飲んでしまい、八時過ぎにはまたしても猛烈な睡魔に襲われる。よし、このまま寝てしまえばきっと翌朝早くに目が醒めるであろうから、早寝早起きにシフトするいい機会ではないか。明日は天気がよければ午前中に自転車で遠乗りに出かけ昼からばりばり仕事をしようなどと考えてベッドに入る。まだ薄暗い早朝に一度目が醒めたがいくらなんでも早すぎるので、もう少しうとうとしようと思っていたら結局今日起きたのは二時過ぎだった。どうなっているのだろう。

おかげで夢はめちゃくちゃなのをたくさん見た。実家から仕事場へ車を走らせているといつのまにか神戸まで来てしまっており、震災のせいで道は瓦礫でいっぱいビルは傾きあちこちで火の手が上がっている。これではいかんと車を折り畳んで小脇に抱え、バスターミナルのようなところで迷っていると、その向こうに綺麗な湖があり、トンネルをくぐって奥へ行くと湖の中心を人一人やっと通れるような細い橋がかかっているので観光気分で進んでいく。ところがどうやらその橋は岸からただ突き出ているだけの飛び込み台のようなものでありやたらと揺れて落ちそうになる。恐いので仰向けに寝て、ずるずると少しずつ背中で這って岸へと戻るとそこは松阪慶子さんの経営する民宿で、松阪さんが「ほら綺麗に晴れた」と言ってベランダから外を眺めるのでいっしょになって外を見るとそこは広大な麦畑で、兄に(実際にはぼくは一人っ子)「おまえ松阪さん好きなんか」と訊かれてそんなような気もし、麦畑をどんどん歩いていくとその先は港で、軍艦が来るのをみんなで反対しているのだが、まるで子供の超合金のおもちゃを巨大化したような派手なデザインのものすごい潜水艦がパレードともに入港してきて中からバッグスバニーが現れ視界はアイリスアウト。ルーニートゥーンのエンディングテーマとともにThat's all,Folks!の文字。


うっとうしい中学生 10/6/98

どうしてガキというのはあんなに負けず嫌いなのだろうか。自転車で実家へ帰ろうとしていたら、信号待ちで自転車に乗った中学生くらいの男の子がいたのである。とろとろ走り出すのでのんびり追い抜くと、突然発狂したように変速機をがちゃがちゃ言わせ必死になって抜き返してくる。しかし変速機付きだなんだといっても向こうはママチャリに毛が生えたような実用車にガキひとり、こっちは十年前のモデルとはいえオールクロモリフレームで七万円もしたマウンテンバイクに元トライアスリートの三十五歳にもなった小説家である。負けてはならじとすぐさま抜き返してやった。ところがすぐに赤信号でひっかかる。するとすでに数十メートルの差はついていたにもかかわらずガキは横へ嬉しそうに並んできたかと思うと、信号が青になるかならぬかというあたりでダッシュしやがるのだ。明らかなフライングではないか。馬鹿めそんな姑息な手段が通用すると思うのかと、すぐに追い抜き遙か後方に置き去りにしたのもつかのま、またしても信号にひっかかる。するとガキはふたたびにやにやと横にならび、フライングでダッシュするのであった。自転車のスピードという本質的な部分ではまったく勝てないことがわかっていながら、信号待ちでのフライングなどというこちゃこちゃしたところで少しでも勝とうと考えるその性根のいじましさはどうだ。腹立たしいのを通り越して悲しいほどである。実力もないのに権力と暴力にはとことん媚びへつらい下のものは踏みつけにしながら出世しようとする人間は多いが、あのガキもそうやって出世していくのかと思ってむかむかする。次の信号までは先に行かせ、そのあとはしばらく信号がないのでそこで一気に差をつけて目にもの見せてやるわと手ぐすね引いていると、ガキは路地を左に折れてどこかへ行ってしまった。逃げやがったのだ。ちくしょう。どうしてくれよう。


菅浩江さん宅へ 10/4/98

田中啓文氏、牧野修氏とともに菅さん宅へ行く。遊びにいったのではなく一応仕事である。ぼくは菅さんとは初対面。待ち合わせ場所のそばの紀伊国屋で牧野氏の『MOUSE』を発見して購入。本当は別の友人の新刊を探すつもりだったのだが『MOUSE』発見と同時にすっかり見事に忘れてしまっていた。菅さんの『雨の檻』も、前からずっと探していたのだが「紀伊国屋」であるにもかかわらず見あたらず、電撃文庫も置いてないみたいなので紀伊国屋もたいした本屋ではないと決めつける。『雨の檻』はあとで菅さんご本人からいただいて嬉しい。

あっ。今思い出したがおみやげに買った葡萄の代金、ぼくの分払ってないのと違うか。払ったかなあ。うんうん。払ったことにしておこう。たしかに払った。払いました。

しかし毎度のことながら、このきしざる三人衆が寄るとのべつ喋っているので大変だ。ぼくは普段ほとんど声を出さない毎日を送っているので、あの人たちといると使い慣れていない声帯を酷使することとなって夜には声が嗄れてしまうのである。しかも今回は、風邪をひいて以来ずっと咳がとまらずただでさえ喉が痛いというのに喋りつづけで、深夜仕事場に帰り着いてうがいをすると、吐き出した水が血で真っ赤に染まっていた。喉は腫れて熱を持ち、息をするのさえ苦しく声など出そうものなら七転八倒の激痛が走る。ここまでしてなぜボケつづけなければならないのかなあまったく。

しかし非常に美しい赤ちゃんを見ることもできたし、時価数千億円というようなオルガンも見たし、啓文さんが天才的なテクニックでそのオルガンを弾きこなすのも目撃したし、日常のぼくの生活からは想像すらできないようなおいしいお寿司をごちそうになったりもして今日は本当に幸せだった。実際赤ちゃんは感激した。あんなに綺麗なものなのか。

SF大会でお会いしたとある方から「田中哲弥さんはおもろい人と聞いていたがおもろいというよりは腰が低いという印象だった」というようなメールをいただいた。他の本当に腰の低い作家の方々とは違い、ぼくの場合は傲岸きわまりない性格を隠すための手段であるので、まずは成功しているようだと安心してほくそ笑む。そういえば今日牧野さんが、ある漫才師がおもしろいのになぜ売れないのだろうと言うので「あいつは性格が傲岸ですぐ嫌われるから仕事も干されるのだ」と解説してあげると、啓文さんが「童顔?」牧野さんが「睾丸?」と同時にぼけた。疲れるのである。


蟻の衝突 10/2/98

朝十時半頃、階下で突如「蟻さんと蟻さんがこっつんこーっ」と童謡の一部分がびりびりと壁を揺らして鳴り響き、続いて赤ん坊の泣き叫ぶ声が聞こえたかと思うと同時にどたどた走り回る足音がした。なんらかの事故で大音響となってしまい、あわててヴォリュームを下げたらしい。たしかにあれほど大きな蟻さんがぶつかれば、赤ん坊が泣き叫ぶのもしかたあるまいと思って納得したものの、それ以上眠れなくなってしまった。しかし階下の奥さんは気だてのいい美人なので、ほほえましく思いこそすれ腹は立たないのである。これが実家の近くの糞山羊に起こされたのであれば、まちがいなく武器を探す。実際何度か殺しにいったのだが、そのつどアホ山羊は「ああ来てくれた嬉しいうれしい」という顔でいそいそ近づいてくるため、なかなか冷酷に徹することができずいつも断念してしまうのだ。朝の四時とか五時からどんがんどんがん山羊の柵やらなにやら地響き鳴らして作業をするくらいなら餌ぐらいちゃんとやらんかあ。しかもあいつら山羊どもは、飼い主である自然食一家に乳を搾るだけ搾られたのち、殺されて切り刻まれて食われてしまうのである。(たぶん。しょっちゅう違う山羊になるのできっとそうだと思う)まあ最近は実家で寝ることがほとんどないので、山羊が食われて死のうが巨大化して飼い主一家を蹴散らそうが知ったことではない。


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