中原中也の會 會報第6号投稿

8/8/99 UP

なぜ中也をうたうのか(3)


中原中也の会「会報第6号」 震災の体験と中也への思いについてみたび拙稿を著すことをお許しいただきたい。市役所庁舎に震災3日目には約2千人となった避難者の最後の一人が役所を後にしたのが、その年の4月の半ばであった。災害対策本部がある二階の市長室に続く幅3メートル、長さ2、30メートルの通路にも避難者の生活があり、本部へ報告に行くにも、壁に沿った「みち」をそろりそろりと歩いた。1月、2月、3月は、震災があっても受験期である。入試を目前にして、薄暗い通路で、勉強に打ち込む中学生や高校生がいた。あはれと思うと同時に、10年後、20年後、彼らこそ、「生きることの意味」をメッセージできる人たちだと思った。

  翌年の9月、私は郷里の高校の文化祭で震災体験を語った。震災パネル展も効を奏したのか、教室いっぱいの参加者であった。震災と癒しについての質問に、「私もマグニチュード7・2の揺れをこの体で体験しました。私も異常かもしれません」と、どうしたことか、気持ちが高ぶった。後に、『北高文苑』という作文集が送られてきた。そこには、震災講演をテーマに、3年になる女子生徒の作文が収められていた。彼女は入試直前にもかかわらず、「最後の文化祭、一生忘れません」と書いてくれていた。 私が中原中也の詩を深く意識したのも、大学入試の時期であった。入試の直前、お互いに「君、ちゃん」づけで呼び合っていた友人が両親の離婚を伝えてきた。友人を前にどう話していいかわからず、開いていた問題集に視線を落とすと、中也の詩「冬の長門峡」を題材に、「寒い寒い日なりき」とはどんな心境かと問うていた。うそのような本当の話である。季節と離婚と入試への不安とが、「寒い日」をいっそう寂寞なものにしていた。

  私は神戸に出て、アルバイトをしながら夜学に通った。郷里からの大学に学ぶ期待の声を背後に感じつつ、おのれの存在がいっそう小さくなる都会の生活に、その苛立ちは、父とも絶えず諍いを起こした。「流れてありにけり」というなんとなく投げやりに感じる表現に、わが存在をダブらせた。当時、流行の政治学は私のような存在を砂のような大衆とか、孤独の中の群集とか言っていた。中也の視線には、本当に流れ流れる水が「魂あるものの如く」感じられていたのであろうか。

  この詩には、色彩を感じさせない。その墨絵の世界に夕陽が「欄干にこぼれ」る情景は、「幸福は厩の中にゐる/藁の上に。/和める心には一挙にして分る」(「無題」)というふうな翻訳的詩句とは違う肌に染みる東洋の宗教的境地を感じさせる。 震災から2年後の2月、山口・湯田温泉を初めて訪ねたことは既に書いた。中也記念館に半日過ごした後、2両の電車で長門峡へ向かった。箱のような単線の無人駅。川向こうに民宿風の旅館があった。風情は「料亭」とは言いがたい。行楽には季節外れで、しかも陽も落ちた時刻に長門峡を訪ねたのである。

  しかし、気持ちは充実していた。快い血液が体内を走っていた。あの寒い日から、30年。私は結婚し二人子の親となり、震災を生きてきた。目の前の長門峡の湖水は、流れているように見えなかったが、私にはその30年が去来し,佇む深いみどり色の水が「恰も魂あるものの如く」目に映った。(完)

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