Date: Fri, 30 Jun 2000 12:47:59 +0900
From: NAITOH,Seiichirou
Subject: 科学教育の意義と目指すところ



S様
内藤です。久しぶりに、科学教育の話題を。

先日、科学教育ゼミが開かれ、そこで議題になったのは、「理科離れ・物理嫌いの現状と問題点」
でしたが、学校での「理科教育」の目指すところというものが、議論になりました。
いかに、その後ML上で続いているやり取りを転載しようと思います。
長くなるのをお許しください。

> (A):なるべく多くの国民が理科の素養を身につける
> (B):大学以降理系を専攻する研究者を育てる
> (A):なるべく多くの国民が理科の素養を身につける
>  1) 現代社会において、理科の「知識」を欠くと日常生活において
>   支障をきたす場合がある。ときには致命的な過ちを犯しかねな
>   い。(例: 酸性薬品とアルカリ性薬品の混合。高分子物質の
>   焼却・廃棄処理。ガス漏れへの対応。) 社会生活を送るため
>   に、読み書きそろばんと同様、理科の「知識」は欠かせない。
>  2) 現代社会において、理科の「知識」を欠くと、科学技術政策も
>   しくは国策に対する個としての政策判断ができない。(感情の
>   問題は別) 科学と政治・経済はもはや切っても切れない関係
>   にある。理科の素養のない国民は国の将来に対して責任を持ち
>   得ない。(例:ヨーロッパ・アジアにおける酸性雨問題。熱帯
>   雨林伐採問題。==> 環境問題は国境を越えた国際問題。)
>  3) 理科の「思考様式」は日常生活において、問題解決手法として
>   役に立つ。筋道立った思考方法の獲得は理科以外でもできるが、
>   文化・文明の違いを超えて世界に広まった(高学歴者に限るか
>   しれないが)科学的思考方法はそれだけ一般性があるとみな
>   すことができ、学ぶに値する。
>  4) 自然理解について、日常知を超えた普遍知は理科の学習を通し
>   て得られる。日常経験を普遍的法則などの普遍知に昇華させる
>   には、適正な指導が必要。科学(理科)を学ぶ価値は、迷信な
>   どにとらわれずものごとの本質を自ら見出す力をつけ得ること、
>   および、身の回りの自然を冷静・的確に理解し、自らの振舞い
>   自然へはたらきかけ)の結果が自らにどう戻ってくるかを考え
>   る力をつけ得ることにある。(例:2)参照。)
>  5) 科学はエンターテインメントであることを理解し、文化として
>   の科学を維持発展させる支援をなし得る国民を養成する。
> (B):大学以降理系を専攻する研究者を育てる
>  1) 国が栄えるも衰退するも、科学技術の地力がどれだけあるかに
>   かかっている。基礎科学研究を行い、科学技術に貢献し得る人
>   材を育成することは国の死活にかかわる問題である。
>  2) 機会均等の観点から、プロになりたい者にその道を用意するこ
>   とに何ら問題はない。文化としての科学を支え、発展させるに
>   は必要なことである。
> 理科好きという立場を離れて、"国家" の未来を定める役割を持たされ
> ている「学校教育」という枠内で、あえて反論します。
> #行き過ぎた個人主義は国を滅ぼす。
> #いたずらに個を殺す国は滅びる。
> #私は国家主義者でもなければ、国粋主義者でもありませんが、戦前
> #・戦中の "記憶" から国というものについて語るのを避ける人が多
> #いのは、戦後の "民主教育" の行き過ぎだと思っています。
> #"自由" と "思うままに" とは違う。
>
>> > 1) 現代社会において、理科の「知識」を欠くと日常生活において
>> (略)
>> > に、読み書きそろばんと同様、理科の「知識」は欠かせない。
>>
>> これは、理科で教えなくても、家庭科や生活科など他の教科で十分
>> だし、より直接的ではないか? 私は洗剤のことなどは家庭科で
>> 知識を得たのを覚えている。
> 化学分野に限ることはない。自然一般について、基本的な知識が必要。
> たとえば、キャンプに行って川岸にテントを張る…。身近な自然現象の
> 起こるしくみを知っていたらこんなことはしない。
> #こういうとき「あぶないからやめろ」だけでは説得力がない。
> また、そういうところにキャンプ場を作ったりしない。
> (あくまでも一例)
>
>> > 2) 現代社会において、理科の「知識」を欠くと、科学技術政策も
>> > しくは国策に対する個としての政策判断ができない。(感情の
>> (略)
>>
>> これは、技術とそのインパクトについて、だれか専門家がまとめれば、
>> それで判断ができるのではないか? 環境問題の解決に理科が役に
>> たったという証拠はあるのか? むしろ興味本位で実験をする態度が
>> 醸成されて危険ではないか。たとえばクローン人間など。
>
> これは、政治は政治家に任せておけばそれで良いと言うのと同じレベル
> の反論です。
> 環境問題の解決に理科で得た知識が役に立つ場面はあるかもしれないし、
> ないかもしれない。ただし、理科教育がなければそのような場面はあり得
> ない。
> また、「興味本位で実験をする態度が醸成されて危険ではないか。」と
> いう議論は推測の域を出ない。実社会の模擬社会として、失敗が許される
> 場として、理科および理科以外の学習を通して興味本位に行動しない態度
> を養うのが学校の役割。
>
>>
>> (略)
>> > もしれないが)科学的思考方法はそれだけ一般性があるとみな
>> (略)
>>
>> 科学的思考法というより、これは論理学とか哲学ではないのか?
>> 特に論理学はディベートなどで訓練するほうが、理科をやるより
>> よいのではないか?
>> 普遍的であるというのは、思いあがりではないのか?
>> 普及という点では、3大宗教を全部教えるという考えもあるのではないか。
>
> 科学は世界のしくみ(なりたち)を問う。宗教は世界の存在理由(なぜ)
> を問う。科学的思考では反証(検証)可能な仮説(原理的に反証実験が存在
> する仮説)だけが真実とみなされる。宗教的思考では、反証実験の存在は
> 必要でない。科学と宗教は共存し得るが、同じものではないし、思考法も異
> なる。
> 論理学は論理を追求するものであり、自然を追及するものではない。自然
> 科学は、いかに優れた論法であろうとも、もとになる "事実" (自然認識)
> が誤っていればその論は崩壊する。自らが論じた事柄が崩れ去ったとき、率
> 直に受け入れるのが科学的思考。
> なお、ディベートは、ものごとを相対する観点から論じ、その本質を追及
> するに適している。これは科学的思考の訓練にも通じるところがあり有用で
> ある。しかし、仮説を立て、実験し、検証する過程をもたない。特に、実験
> の有無(実験的態度の有無)は大きな違いである。この点において、ディベ
> ート訓練は科学的思考の訓練に置き換えられない。
>
> 「思いあがり」は感情論。現在地球上に存在するほとんどの人間社会にお
> いて、歴史・文化の違いを超えて、科学が生活に入り込んでる。意識しよう
> がしまいが、科学とその技術的成果は歴史的・文化的背景によって拒否され
> ることなく世界中に存在している。文化を超えて受け入れられているという
> 意味において科学は普遍的である。
>
>> > 4) 自然理解について、日常知を超えた普遍知は理科の学習を通し
>> > て得られる。日常経験を普遍的法則などの普遍知に昇華させる
>>
>> これまでの学校理科で、そんなことが可能になっているのか?
>> 人間はサボりたがる生き物であり、冷静的に理解するより直感的に
>> 判断するほうを好む、それを理科がひっくりかえしているとは
>> とても思えない。このことから、理科という教科のわくぐみと手法が
>> はたして上記目的に対して適切であるか疑問である。
>
> 学校理科で十分可能である。少なくともその可能性はある。
> 「人間は・・・」以下については、私はそうは思わない。反論としては
> これだけで十分であろう。
>
>> > 5) 科学はエンターテインメントであることを理解し、文化として
>> > の科学を維持発展させる支援をなし得る国民を養成する。
>>
>> これは、科学が好きな人間の思いあがりではないか?
>> 義務教育や準義務教育である高校でギリギリやる必要があるのか
>
> もともと趣味の世界のものであった科学を実学であると思うところに、現
> 代日本社会のあやまちがある。
> 美術や音楽といった教科で文化を謳わないものがあるだろうか。科学には
> それが許されないという論調はおかしいのではないか。
> 学校教育の特徴はその強制力にある。これを否定したら学校の存在意義は
> ほとんどなくなる。思うままに生きるだけで良いのなら、学校は必要ない。
> 読み書きそろばんだって、実社会で実地に訓練を受ける方がよほど為になる。
>
>> 本当に楽しいものであれば、カラオケのように誰もが
>> いつでも手軽に楽しめる仕組みがあってしかるべきではないのか。
>> また、将棋などは、ほっておいてもその文化は国民は理解しているが
>> 将棋などは、学校では教えないではないか。クラブ活動で十分ではないか
>
> 科学館は楽しくない?

こういった議論が、しばらく過熱しそうです。やはり、世界に対する関心としての科学と、
実学としての要請がある学校教育での「理科」との間に、ギャップが生じているのが現状です。
この話の前提として、「理科嫌い」が進む中で、理科のカリキュラムが大きく改変されますが、
知識の量は減っていく、そうすると、興味のある人にとっては機会の喪失にあたるのではないか、
ということが持ち上がっていました。そこで、義務教育の中にも、「総合理科」のように
素養としての理科、そして、理系をめざす人への理科教育を、分けてしまうという声もあり、
こういった議論になったのです。果たして、「理科教育」が必要とされる所以はどこにあるのか。

三浦朱門なる小説家が座長のどこかの教育審議会で、三浦氏は、
「私は二次方程式など知らないが、それで困ったことなどない」と発言し、日常知と離れた
数理学の授業を批判したそうです。それでは、しかし日本人の世界に対する普遍知は
再び過去に戻ってしまう。隣にいた副委員長格の科学者は、
「私はあなたの小説を一度も読んだことがないが、それで困ったことなど何ひとつない」
といいたかったそうです。
「日常知」と「普遍知」。とかく、高度に発達して細分化された社会では、判断や知識を
一部の専門家に委ね、個人が世界に関与しようという態度が希薄です。
これは、若年層の勤労意欲の減退など、何かしら本質的なところでの「意義の喪失」
とかかわるのかもしれませんが、とりあえず、学校という場所で、何を必要として
何を教えていくのか、ということは、やはり国民の、そして個人の将来を
大きく左右することに代わりはありません。 議論の元となったレジュメは、
http://super.win.ne.jp/~kya/semi/ にあります。よろしければごらんください。

ご意見をお待ちしています。
もしよろしければ、科学教育ゼミのWebページ
http://centaurs.mtk.nao.ac.jp/scied も見てください。過去の内容などもあります。

話は変わって・・・ 先日、地元の図書館で除籍本の配布に行って、
「日本戦艦戦史」という本をつい持ってきてしまいました。
それはともかく、去年、プラネタリウムのシナリオを考えていた時期に、
少したずねたことですが、あのときの時代設定が、少し気になりました。
舞台は南洋の島で、空戦中に撃墜され無人島に不時着した米機動部隊の
パイロットが主人公、輸送船を沈められ漂着した日本兵(海軍航空隊)と遭遇するのですが、
当初、1944年冬あるいは1945年初頭と考えていました。
南洋の支配権がアメリカに移ったことを考えると、1944年春から夏以降、
とした方が妥当でしょうか。このころを過ぎて、戦争終盤では日本海軍は南洋に
特設空母などで無け無しの航空機を運ぶ余裕などあったかどうか、と思ったもので。
また、適当なアメリカの空母と、その航空機隊の名称の例を教えてもらえないでしょうか。
たとえば三四三空とか、鹿屋空とかそういった感じで。ちなみに戦闘機隊のつもりでした。

最後はあまり意味のないおまけでした。
では。