内藤です。
お久しぶりです。
こちらは、昨日2本レポートを提出し、 残すところあと3本です。
S> ロケットが相次いで打ち上げに失敗し、打ち上げ機関が
S> 統合に向かうようですが、内藤さんにはこれについて思うところ
S> 多かろうかと拝察いたします。
それはもちろん多くのことを考えています。ただ、今回のISASの
失敗に関していえば、衛星が運用できなくなったことで生じる
観測の重大な欠落が痛手と考えているので、技術的な心配はあまりしていません。
全く系列の違う技術ですので。ただ、NASDAとの組織統合がなされれば、
予算的に大部分を実用衛星とH2Aロケットに奪われ、学術衛星の
運用が食われることはこの国ではおそらく必至なので、それを懸念しています。
文部省の学習指導要領改定による理科教育の背筋の寒い状況や、
全面的学問離れについては、科学教育ゼミの話題にも絡めて、
改めてお話ししたいと思います。
石原都政に関しては、既成権力に対する啖呵と明解な態度が
この不透明な時代において何らかの光明に見えるのでしょうか。
政治や経済についてあまり深くは追究していないので(自省しますが)
私自身は現状を把握できているとはいえませんが、
ある打開策として、相当のメリットと相応のデメリットを含んでいるケースというのは、
これはいかなる事象に対しても当然あることで、
それを評価し採用しようとするには、感情を離れた議論が必要です。
賛同する人の多くは、都知事の切った見栄に
歌舞伎を見ているような歓声をあげているのでしょうか。
ただ、SPM規制など、これまでの微温的な和合体質の中に
シビアに物を投げ込んでたたき台を先手をきって提示していく施政は、
これから参考にするべき面も否定はしないのですが。
S> 何事かを巡って議論をするのはとても楽しいことです。
S> お互いに知見を広めることが出来るし。
S> でも、そういう機会はあまり多くないようです。
S> 先日筑駒縁日班の仲間と久々に語りましたが、
S> 小生はそれでもそういう相手に恵まれている方のようです。
S> そういう意味では、小生は幸せなのかも知れません。
先日、K氏と話したのですが、最近の傾向として、
考えたり物を知ろうとしたりという能動的な知性の働きについて
重きを置く人が少ないように感じます。
真剣に物事を論じることに価値を見いだせない、あるいは、
そのような態度を軽蔑視させえそうな軽薄観があります。
話の中で、主体のない「大衆」というものを批判したのですが、
こういう発言自体、「エリート思想」の名を着せられます。
私達が批判したのは、発言する個人の埋没、
あるいは判断に対しする個人の無責任さとしての大衆のなす害です。
発言者は、あくまでも個人でなければならないし、
私達自身を含めて、「大衆」という単位では不明瞭になります。
こうして個人と大衆をわけること、極端にいえば、
何か物事について問題意識を提言すること自体がしかし、
「エリート」という言葉とともに敵視されるのです。
私達は、一般的問題を論じたいとしても、人々は、
「おまえはエリートだからそう言うが、普通の人は」と
議論そのものを投げ出します。これは、先ほどSさんが
「議論が広がらない」と仰有っていましたが、
「普通の人」とくくることで、個人を露出させず、
おそらくは何か物事を評価ないし判断することに責任を持ちたくない、
あるいはそもそも評価する力がないことを言い訳しているに
すぎないのではないでしょうか。
こういう言い方は、反感を招くことを承知で、あえてこういう言い方をします。
昨今の風潮として、物事の価値が知性的、内面的、そう言った抽象的なものから
即物的享楽的なものに流れているのは、
個性とわがままを履き違えた没個性教育による画一化、無責任化、教育面の失敗や、
一旦経済的な隆盛を過ぎて下った時代の脱力感、無力感、退廃など、
いろいろとあるのでしょうね。
今週は、あるキリスト者達の集まりを紹介されていて、
現在の宗教というものと人々、その信仰のあり方や、世界認識について
観察してこようと思っています。低劣な教団でないと祈りつつ。
代々木八幡の方だそうなので、夕方には駒場によると思います。
では。