Date: Fri, 22 Oct 1999 16:50:15 +0900 (JST)
From: NAITOH,Seiichirou
Subject: 少々多忙にて



内藤です。
ここ数週間は土日に用事が立て込み忙しくなりそうです。

先週、科学教育ゼミが開かれまして、テーマが「理科教育の歴史」ということでした。
教育学的な面は私には背景がないので、十分なコメントはできないのですが、
いくつか興味深いことがありました。
それは、理科教育の目的ともいうべき根本概念です。

欧米で一般に初等教育が普及するのは19世紀から20世紀で、
理科というものは19世紀以降に教育が進められるように
なってきたというのが大体の歴史的背景ですが、
日本の場合は当然明治に学制が施行されてからになります。
それからの教育の変遷を概説した資料がありますが、
例えば明治の初等教育では、事物の説明に終始しています。
「第一 油菜 第二 モンシロチョウ」云々と。
「理科ハ通常ノ天然物及現象ノ観察ヲ精密ニシ其相互及人生ニ
対スル関係ノ大要ヲ理解セシメ兼ネテ天然物ヲ愛スルノ心ヲ養フ
ヲ以テ要旨トス」というのが基本姿勢のようでしたが、
総合的内容にはなっていなかったようです。

国民学校時代には、「通常の事物現象を正確に考察し処理する能力を
養成し、これを生活上の実践に導き、合理創造の精神を涵養し、
国運の発展に貢献する」という、社会からの要請を反映した
側面を持ちます。これは、スプートニクショックのアメリカや
戦後復興から成長期の日本でも、産業界から時代の担い手として科学の
素養を持つ人間の養成が望まれたことも起因します。
ここで、生活中心のよき市民の育成を担う教育から、
科学技術の振興を目指す教育への転換が起こり、
科学の体系が重視されていきます。

さて、こうして、系統科学と呼ばれるものが生まれます。
昭和43年の小学校学習指導要領では、
「自然に親しみ、自然の事物・現象を観察・実験などによって
論理的、客観的にとらえ、自然の認識を深めるとともに、
科学的能力と態度を育てる」ことを目標に、現象相互の関係、
原因・結果の関係的な見方、定量的、定性的な処理能力を
育てようとしています。ここにきて、自然認識を深めるための
論理的方法が求められ、学習にあわせて連続的、有機的統一的に
つながるよう構築されていきます。
もっとも、学習が形式的になり、子供の興味関心を失わせる
可能性も存在しており、それが現実となって今の社会が
姿を現していくのでしょう。

その後は、ゆとりの時間、人文主義・人間主義が叫ばれるようになり、
体系化された理科教育は内容の削減などの流れを迎えます。
新しい指導要領では、社会に大分時間をもっていかれたようです。

かつては、白紙の子供に知識を与えていくという形成主義の教育でしたが、
近年の教育界では、子供がすでに持っている世界観があり、
子供たちはそれぞれの形に手を伸ばしている。
そこに知識を結びつけていくという、構成主義といわれる考えが
台頭しています。これは重要で、「教え込む」というのが
形成主義的であるのに対して、私達が目指すべきものが
構成主義的な何かではないかと思います。
Sさんが仰有っていた、「生徒の世界把握の形成を助けるどころか、
自己の世界把握のコピーを量産する方向」という問題も、
この点と根を同じくしているといえるでしょう。
「科学」という体系を押しつけるのではなく、どのようにしたら
子供たちの世界認識と科学の体系が結びついて行くかを
模索しなくてはなりません。
子供たちのまわりには、多くの情報がある時代ですから、
科学の断片的な知識や概念は学習をはじめる前段階で
不定形であれ存在していることでしょう。
それを教育によって整理し、相互にリンクさせていくことで、
世界認識が進み、新しい知識もその上に構築することができると思います。
それは歴史学についてもそうではないでしょうか。
断片的な知識が一つの大きな矢印の中にあるということを
結びつけて考えることができれば面白いでしょう。
文理の境界もこの面では重要でなくなるべきです。
「自由主義史観」についても、彼らはあくまでも
自らの世界観を与えて子供を形作ろうとするわけで、
これから要請されるであろう双方向的な要素はなさそうですね。

ただ、今の子供たちを見ていると、教育の側が新しい道を探しても、
次に育つ世代がすでに世界への無関心さを親から受け継いでいれば、
また教育を与える親が価値を理解しなければ、
反映の場を得ないことになります。
厳しい時代が続くことは変わりないようですね。
そこで、やはり何かきっかけを与えること、
面白さを感じさせる場が必要になると思うのです。
それは、広く一般の人に対して働きかけなければなりません。
例えば、教育番組やメディア上でオープンなプログラムのように、
親しみやすさを持ったものであったり、
例えば少し関心が芽生えた人には、私達のユニバースや観望会のような
もう少し深くを垣間見ることができるようなプログラムだったり。
この辺りは、確かにまだ小手先の面白さですが、
そこからどのように関心を育て、世界への態度というものを築かせるか
(築くか、ではない)ということが、教育の目標ですね。

さて、明日、科学技術館はユニバースで、「JAHOU公開授業」
なるものがあり、それを手伝おうと思っています。
これは、お話ししたHOUのイベントで、
すでに興味を持っている中高生を捕まえてきてさらに毒を飲ませようという
活動の一つです。小惑星探査やしし座流星群観測について 授業が催されるようです。
このイベントに参加する人たちは、そもそも理科、天文に関心の
ある生徒であり、機会を提供すれば勝手に世界を深めて行くでしょう。
ただし、この手法では先日の議論にもある通り、
興味のない人には高い敷居になり、取り込むことはできません。
ただ、学問分野を究め、また指導の立場にいずれまわるであろう人は、
その分野にたいして常に高い見識と関心を持っていなければ、
伝えられる学問も生きてこないですよね。

今回は、ゼミの内容をまとめてレポートするという義務を
まだ果たしていないために、教育の話に偏りましたが、
教育についての正確な知識ではないため、
要領を得ないのはいたしかたありません。

科学の世界認識の不安定さについて、また機会を改めて話しましょう。
では。

では。