Sです。
先日はこちらの都合で充分に話ができず、申し訳ありませんでした。
昨日、文学部の専門科目で考古学がありました。
教授はモノから歴史を探るのが考古学の特徴であり、
モノは嘘をつかないと力説していました。
そして、考古学の日常の研究はモノを巡る地味なものだが、
それを通して人類の文明の形成を知るという根元的な
目的があるのだと説き、その話で終わりました。
その後、同じ授業を受けていた見ず知らずの人が、
「結局教授の自慢話でつまんねー。もっと調査法とかの
話をした方が面白いのに」 などといっておりました。
文学部専門科目に集うものですらこの有様とは。
小生、いささか暗澹たるものがありました。
根源を見据えずして自らの為している行いを意味付けることは
できないと思うのですが、小手先の面白さだけで考古学を、
学問一般を選ぶのはつまらんですね。
最初のきっかけは無論それでもいいのですが、
そこから適切な教育で(世界認識という)根源への道を
つけるような手だてがいるのかもしれません。
先日の教育を巡る話題で、天文台に高校生を招いて
研究に触れさせるというのがありましたが、
それはとても素晴らしいことですが、その分野に
興味の無い人を採り込む手法としては有効でないという
件がありました。 小生の友人で教育学部の社会科に進んだ人が、
社会科教育で歴史を教えようかという人は、
そもそも歴史好きなので、歴史を全く知らない生徒に
どう教え込むかということがまるでわからない、
という皮肉な話をしていました。
ある学問分野を教えるには、その分野に誇りと見識を
持つ人でなければ教わる方もつまらないでしょうが
しかし受け手にそのような問題が生じるのは避けられません。
そこで「教え込む」こと自体に熱意を持つ教師という
存在を仮定してみますと、彼らは「教え込む」ことで
世界を認識していることになり、それは自己の世界認識の
パターンを生徒に押し付けることに繋がるような気がするのです。
ふとそんなことを思ったのは、自由主義史観のHPを見て、
彼らが授業を行っても依然南京事件を肯定する生徒の層を
「脱洗脳失敗層」と規定していたことでした。
教育の本質が−特に初等・中等では−緩やかな虐待という
本質を幾分かは免れ得ないものであるにせよ、
生徒の世界把握の形成を助けるどころか、自己の世界把握の
コピーを量産する方向であるのは、誤りと考えます。
あるいは、その上からの世界把握を打ち勝ったものにのみ、
学問の道が開かれるのか。現状はそれに近いかも
知れませんが、そんなことで良い筈はないです。
なんだかちっとも依然との繋がりが無く、思い付きの話で恐縮です。
科学の世界認識の不安定さや社会との関わりについては、
もう少し考えてみたいと思います。
では。