Sです。
ご丁寧なご意見を毎回聞かせていただき、嬉しい限りです。
確かに、やり取りするたびにお互い文章が長くなって
来ていますね。しかし、決して拡散して議論の本質を見失うのではなく、
いよいよ問題の核心は見えてきたように思います。
核心は、世界を認識すること、それに尽きるかと思います。
といっても、このことを極める為に如何に多くの先哲達が
苦闘してきたかを考えると、安易にそう言いきってしまうのも
ためらわれますが。
世界認識の手法は大雑把に言って精霊信仰−万物に神が宿るとする
認識手法、理論を持つ宗教、そして科学と移り変わってきたといえます。
精霊信仰(アニミズム)は、風が吹いたら風の神、雨が降れば雨の神
といった具合で、人間が自然を見たまま、素朴な形で世界を認識していた
訳です。 それが宗教になると、世界観全体を貫く哲学性が強まります。
宗教のなかにもいろいろあり、抽象性の高い一神教から、精霊信仰の
名残を残しているものもあるわけです。両者は決して断絶している
わけではなく、それまでの世界観への疑問をへて、何らか形でその
影響を残したまま次の世界観に移行するのです。
そして科学の時代です。これも観察に始まり、全体を貫く理論体系に
従って世界観が展開されていきます。科学は実験という手法が
取り入れられたのが違いなのでしょうか。
さて、これらはどれも人間が世界を認識し把握しようとした手段です。
我々はこれを文明の発展段階と捉えがちです。その見方は全く
的外れというわけではないでしょうけど、だからといって世界認識の
手段として、科学が最も優れ、宗教がそれに次ぎ、アニミズムが
最も劣るとは言えません。実は全く逆なんです。
世界認識の手段としては、アニミズムが最も完璧なのです。
なぜならば論理的に破綻し得ないからです。自然現象を極めて
素直に解釈し、構築された世界だからです。未知な事象に出会っても、
すべて同じ手法で解決できてしまうのです。新しくその事象に
対応した「なんとかの霊」を想定し、それを崇めればよいのですから。
これが理論を持ち、経典や聖書で明文化された宗教だとそうは行かず、
教義問答や異端審問なんて事態が起こり得ます。
まして科学においておや。内藤さんが以前述べておいでのように、
科学では前の理論の不完全さが発見され修正されるというのは
日常茶飯事です。その「いつまでも絶え間ない進歩の学問」である
ことが科学の科学たる所以であると言えましょう。
つまり世界認識の手段として科学は3つの内もっとも不安定な手法に
過ぎない。しかしその不安定さゆえに、少しづつより完全な世界認識
へと歩み続けることができるのでしょう。
さて、以上の話のネタは原書房の「図説 死刑物語」(カール・B・レーダー)
です。基礎演習のネタ本として使ったのですが、とても面白い本です。
小生は古代の神話・精霊信仰とかはからっきしなので、不正確な
認識もあるかもしれませんが、小生としては以上のように解釈しました。
この本では作者は、死刑は、アニミズム的認識における世界秩序を
乱したものを罰するという理念に基づくものであり、今日の世界では
廃止されなければならない、という議論を展開しています。
「人権」という言葉への昨今の風当たりの強さに戸惑っていた
小生にとって、これは大きなヒントとなりました。死刑廃止は単なる
人権問題ではなく、その蔭にはこのような歴史的背景があるのだと。
で、さらに話しを続けます。
上掲書で作者はその論の根拠として、古今の死刑に見られる
アニミズムの影響を数多く例示しています。それは本題と関係ないので
省きますが、要するに今日でもアニミズム世界認識の影響は残っているのです。
とすれば、今日の我々の世界は、アニミズムと宗教と科学が歴史的に
重なり合って形成された世界認識を持っているわけです。
決して科学一色に塗りつぶされたわけではないのです。
そして時とすれば、社会の不安から、科学の不安定さへの恐怖が
高まり、論理的破綻を来さない世界観への欲求が高まって、
アニミズムが再び頭を擡げる場合がありうるのでしょう。
それが今の時代なのかもしれません。
それはオカルトの衣装を身に纏うこともあるし、あるいは
科学の体系をアニミズムの体系と同一視し、世界は既に
語り尽くされているのだ、と考えることで論理的破綻なき
世界観への回帰を成し遂げようとすることもあるでしょう。
そう、どうなるか分からない世界観への不安。これは科学文明の
発展で自然破壊がどうこうと言った話とは限りません。
それは科学的世界認識の中での修正すべき方向への戸惑い
ではあっても、世界観を把握することを放棄したとは限らないですから。
ともかく、世界認識について反動化が進んでいるというご指摘には
全く同意します。それは確かに何かのゆり戻しだろうと思います。
それが何かはまだはっきりとは見えていないのですが・・・
しかしそれでも、人間はアニミズムの世界認識から宗教を
生み出し、科学的認識という手法をも発明したのです。
それはまた、何がしかの希望に通じるとも思えそうです。
人間は一見破綻無き世界観に安住するように見えながらも、
すべてを疑い、飽くなき追及を続ける精神をも持っているのだと。
内藤さんは教育の方面にも関心を持っておられるようですね。
やはりある世界認識に安住することなく、あくまで追及する
精神を次の世代に受け継がせるには、教育は必須ですね。
小生はその辺に悲観的というか懐疑的ですが−それは
歴史問題で既存の教育体制は問題が多い(左右両方)
と、特に我が大学教育学部F教授近辺から思ってしまった
ためでしょうが、それならば新たな教育手段は自ら創造せねば
なりません。内藤さんの関与しているそれらの企画が
実を結ぶことを心から願っています。内藤さんのような
思想的背景を持った人達が伝えてこそ、永続する成果が
得られるのだと思います。その方面で活動を開始されて
いる内藤さんに対し、小生は歴史を志すと決めた割には
行動が伴っておらず、赤面の至りです。
いつかもっと詳しいお話を伺いたいと思います。
前回が題すれば「世界認識とメディア」みたいな話だったので、
今回は毛色を変えて新たな話題を提起してみましたが、
手綱を締めるどころか暴走してしまったようです。
またもや徹夜で悶々と瞑想し、化学部時代の会報を
読み直しては自分の浅はかさにただ茫然とするばかり、
それでも今日何とかこんな話ができるのも、内藤さんはじめ
皆さんの薫陶のおかげです。少しは進歩しているようです。
ゆれ戻しという時代は確かにあるでしょう。しかしメッテルニヒも
やがて革命で逐われるのです。今はこんな時代ですが、
ラファイエットのごとくしぶとく最後まで生き延びて顛末を
見届けてやるというのも、一つやってみる価値があるかもしれません。
「何なのですか、劇場の偶像というのは」
「劇場の偶像とは、すなわち権威ある他人の意見さ。人は
自分が体験しなかった事柄を解釈するとき、そういう意見に
導かれることを好むのだ」
「ああ、よくあることですね!」
「時には自分が体験した事柄さえ、その意見に従って解釈
してしまう。つまり自分を信じないほうが楽なわけだ」
「そういう連中もよくいます・・・」
「それから劇場の偶像には、もう一つ、科学の過信ということも
ある。一言にしていうならば、これは他人の迷いを自発的に
受け入れることだ」
『ガン病棟』(ソルジェニーツィン)より
ではまた。
駒場に来る予定などありましたらお知らせ下さい。