内藤です。
今週は天文学会のせいか午後の講義がなくて楽でした。
来週から本格的に始まります。
S> 昨今の世界の動きなど見ていますと、異議を唱えたいのに
S> 唱える手段が無い、あっても唱えたところで無意味ということが
S> 分かりきっていますので、なんとも果てしの無い無力感を
S> 感じてしまうのです。
私自身、報道されることや自分が見聞したことなど、
多くのことに関心を持とうとしてはいるつもりですが、
実際なにかしら働きかけをするということは、難しいですよね。
たとえばなにかしら行動にでるでもなく、分析だけしてみせても、
それは傍観と同じですし。
それに、議論をする場もないのも現状です。
家族じゃしょうがないし、理学部の人は一般に自分はそういう話は
苦手だと思っているようですね。そういう空気があると思う。
そう言う、理学の世界にある意味逃げるような態度は、
これまでの文理差別化された教育の結果なのかも知れないですが、
結局、その姿勢では理学がそれ以外の世界と隔絶してしまう。
象牙の塔は、こういう形で形成されるのかも知れません。
私は、これは天文の範囲でしかありませんが、
科学技術館のユニバースというライブショウのアシスタントをしたり、
(これは毎週土曜に行われています。30日は私が当番です。)
国立天文台で行われる天体観望会の手伝いをしたりしていますが、
これは、自分が天文の業界の人と交流して楽しむのと同時に、
一般の人への天文啓蒙という働きかけの場だと思うからです。
同時に、科学教育のゼミに参加しているのも、教育は門外漢ですが、
天文について理解と関心をもって楽しんでほしいからです。
本当は、法学部の人とか文系の人がいるワークショップなどで、
社会運動にも目を向けたいのですが、機会も余裕もないですね。
昨年は機会が得られたのに、そのころは動こうとしなかったのが悔やまれます。
S> 自分としては歴史に邁進することは、
S> 「いまここになぜ自分は存在するのか」という世界認識を
S> 巡る哲学的疑問の解明こそがその動機と考えております。
S> 一部の人間が主張するように、戦前の日本人が勇敢で
S> 公の精神に満ち溢れていたなんて御大層なことじゃありません。
S> 「日本帝国」ができる以前の、細分化された藩統治の
S> 記憶に基づく共同体精神が残っていたからです。
これは興味深いことを聞きました。なるほどねえ。
「国家のため」というのは、題目であると言うことは感じていたことです。
そう自分に納得させることで、直面している凄惨な現状を肯定しなければ
やっていけなかったのだろう、と。
確かに、実感として人が感じられるのは、茫漠模糊とした枠組みではなく、
自分が生きた空間にある何かに違いないですし、
私達が「日本的なもの」と感じるのも、外国と比較すれば
抽象的な概念で代表されますが、自分が暮らした風土でしょうから。
S> メディアというのは五感の拡張ですから、例えば戦前の
S> 日本よりも、五感に基づく記憶を豊かにできるかもしれない、
S> 他の人と同じような記憶でも、メディアを介して他と
S> 結び付けることで意味を深められるかも知れません。
S> そしてそれを手掛かりに、世界を認識したいという欲求が
S> 生まれてくるのです。
自己の価値基準や判断は近年では肥大化したメディアによって
干渉される(構築される、といってもいいかも知れない)ようになったと思います。
個人の事象の地平は、格段に広くなった。
以前ならば、自分を取り巻く環境と見知った顔ぶれ、
一地域の中で世界は完結できました。
現在では、逆に具体的に地域社会から個人は隔絶され、個別化している一方で、
その個人が触れる情報というのは、ワールドワイドなものであり、
また多岐にわたっています。この洪水のような情報の中で、
個人の地平というのはメディアという拡張された五感を通じて広げることができます。
それは、可能性であるのですが、また、その中で自立的に対応する能力も問われます。
個人の理性がその五感を自分の統制下に置いて世界を見渡せば、
世界を認識する強力な手段になります。
しかし個人の判断を今やリヴァイアサンと化したメディアに委ねてしまうことは、
たとえば記憶の外部勢力による構築を許すことにもなり、
歴史認識などの舞台では危険性にもなり得るのではないでしょうか。
S> 人類全体が安易にメディアに依存し、記憶に基づく個性的な
S> 精神形成を推し進める方向には無いようです。
まさに、メディアが一人勝ちしている気がします。
しかし、メディアはあくまでも主導権を握るのは社会の表層のことで、
実際に進行する政治なり社会問題なりに大しては、
有識の仮面を被って論壇に立っている顔をしながらその実日和見主義を守っています。
影で進行する権力の独裁化。アメリカ帝国主義もそうですが、
ここに来て国内で政権の攻勢を見ていると、大衆の無関心とともに、
情報の氾濫のせいでかえって不透明度を増している隙を衝いている気がします。
メディアについて、少し離れますが、ネットワークを用いたリアルサイエンス体験
ということで、教育的な試みが始まろうとしています。
ネットワークは、空間的距離を無効化し、また双方向の発信が可能なので、
教育現場と研究現場を結ぶことで、教育に新しい道を開こうというものです。
コンピューターネットワークは、個人の発言をしやすくするのは、
東芝の例でも一端が示されたように思いますが、
そこに明確な指針とサポートをもって取り組めば、
強力な武器となり得ると思います。
S> それはさて置き、星というのは抽象的世界認識手段たる
S> 科学と人間の記憶を結びつける上で、なかなか有効な
S> 媒体であろうかと思います。五感に与える印象が
S> 鮮烈ですから。
S> 綺麗な星空が戻ってきたら、少しは世界に関心を持つ
S> きっかけが増えるでしょう。
例えば、新聞の科学欄で最も多いのは天文の話題です。
それを見る限り、宇宙の話題というのは比較的人の関心を惹きやすいようです。
HSTやスバル画像などが与える印象は確かに鮮やかです。
しかし、それは一時的な関心で、映画を見るのと変わらないでしょう。
そこから世界へと結びつけるためには、我々がさらに働きかけをしなければいけません。
具体例ですが、アメリカでHOU(HandsーonUniverse)という
教育プロジェクトがあり、超新星探査などを高校生にやらせるのですが、
理科コースの生徒でさえ、ハッブルのような「豪華な」画像がないと
関心が長続きしないそうです。これは、科学が求めて行くものや、
その哲学的な存在意義が全く継承されていないことの現れかもしれません。
理科離れというのは、実は理科に限らず、本質追求という理念の稀薄さ、
あるいは、「世界は語り尽くされた」とする安住の心理があるのではないでしょうか。
S> 以前から話していたことですけれど、
S> 今自分が存在している世界を如何に把握するか・・・
S> それこそが人間のあらゆる精神活動の基幹だと思うのです。
S> そうであるはずだったのに、それが難しい時代になっている。
S> それは世界について既存の解釈で充分、新たな
S> 解釈など要らないという考え方があるからでしょう。
人々の学問離れは、世界についての人間からの精神的探求の終焉なのでしょうか。
理科離れを懸念する科学教育ゼミに触れて、考えるようになったこともあり、
危惧を感じずにはいられません。
天文学ばかりでなく、学問、そして全ての精神活動というのは、
仰有る通り、自分のいる世界を認識することだと思うのです。
それが、世界観として天文に代表される科学を生み、宗教を生んだ、
哲学的探求として現れたのでしょうし、また、ある社会の反映を
求めれば、文学にしろ映画にしろ、何らかの創作になるのでしょう。
それは個人の内面に対する探求でも基本的に同じことがいえると思います。
世界認識に関して、最近反動化が進んでいるという気がします。
科学的な実在性にたいして、カルトな文化が繁栄しているのも、
従来の倫理観を旧弊なものとしがちなのも、
再びナショナリズムの高まりをみせるのも、なにかしらの
揺れ戻しなのではないでしょうか。
ヨゼフ二世の啓蒙的反教主的政策ののちには、フランス革命の火種を
消すこともあったのでしょうが、ウィーン社会は反動的な
強権的専制を強め、ナポレオン後はメッテルニヒ施政を迎えます。
時代は、真っ直ぐには歩まず、常に退行の危険性を孕んでいるのかも知れません。
なんだか、返事を帰す度に長くなっている気がします。
論点が発散してしまう。手綱を締めてくださいね。
では、また。