Date: Thu, 07 Oct 1999 05:58:13 +0900
From: S
Subject: 日比谷線の車中で思ったこと



Sです。
たびたび返事が遅れ申し訳なし。

内藤> 今の人々は、世界にたいしてあまりに無関心だと思います。
内藤> 表層的愉悦で満足していても、その根底には明らかに
内藤> 物事に対して無関心な(しらけた)空気が蔓延している気がする。

小生自身、そのしらけた空気に染まりきっているのではないかと
自らを省みて思うことがあります。
昨今の世界の動きなど見ていますと、異議を唱えたいのに
唱える手段が無い、あっても唱えたところで無意味ということが
分かりきっていますので、なんとも果てしの無い無力感を
感じてしまうのです。
小生はせめてもの救いと言うか、内藤さんはじめ
小生の無力感の愚痴を聞いてくれる人がいる分、恵まれて
いるとも言えるでしょう。

自分としては歴史に邁進することは、
「いまここになぜ自分は存在するのか」という世界認識を
巡る哲学的疑問の解明こそがその動機と考えております。
東大の歴史学科が明治に創設されたとき、創設者はこういったそうです。
「歴史は名教の手段ではない」と。
名教の手段ではないというのは、特定の政治・宗教思想の宣伝では
あってはならないということです。 小生としてもそう考えています。
しかしながら、専門的知識や思考を有さない大衆にそれを
伝えることができなければ、所詮は愚痴の域を出ないのではないでしょうか。
自由主義史観と言う、愚かしき「名教の手段」は未だ健在です。
それは、優れた研究を行っていたのに、それを社会に流布する
努力を怠っていた歴史学の方が悪いのでしょうか。
独立行政法人化を主張する人にいわせればそうでしょう。
そういう面を一概に否定するわけではありませんが、
受け取る側の方にも大きな問題があると小生は思います。

内藤> 科学の側の問題だけでなく、事象の理解に対して無頓着な
内藤> 大衆性というものも影響するのではないでしょうか。
内藤> 専門家が象牙の塔の中にあると同時に、その知識も
内藤> 外部に還元されることなく、また社会もそれを求めていないように見えます。

内藤さんのこのご指摘は、広く大学などの研究一般に
あてはまり、これからの学問が是非とも乗り越えねばならない点です。

さて、小生は防衛研究所の図書館に通ってちょっとした
調べものをしています。その成果は、早ければ駒場祭で出せるでしょう。
それに関連して、ある部隊の戦記のコピーを読みました。
地方新聞に「郷土部隊の活躍」という感じで載せられていたものです。
はっきりいえば、この戦記は歴史学的には(文学的にも)酷いものです。
「壮烈なる戦死」と言う表現の乱発、将兵の戦意はいつも高く、
精鋭の勇士達が大活躍という内容です。
でも、別な資料を当たると、装備は劣悪、所帯持ちの召集者ばかりで
精鋭どころか予備隊がいいとこだろうと部隊長自身が書いてます。
しかし、この戦記、あることの示唆にはなりました。
ここまでして関係者が「郷土」部隊の活躍を残そうとしたこと、
それは兵士達が「お国」でなく「お郷」の為に戦ったということです。
日本兵の戦意は郷土愛に由来する面が大きいと思います。
それは訳の分からぬ「大東亜共栄圏」だの「万世一系の国体」
だのよりも、はっきりと五感で感じることのできる、自らの
記憶に基づいています。
一部の人間が主張するように、戦前の日本人が勇敢で
公の精神に満ち溢れていたなんて御大層なことじゃありません。
「日本帝国」ができる以前の、細分化された藩統治の
記憶に基づく共同体精神が残っていたからです。

飛躍しますが、結局のところ、何かしら自己の記憶に基づいて
人間は自己の価値判断を作り、その為に人生を捧げられる
ということなんでしょう。メディアが肥大化したこの時代に、
自己の記憶を頑なに守って精神を形成するのは
難しいことかもしれません。反面、戦前よりも「記憶」を
取り巻く環境が豊かで自由である、ということは
やり方次第では、素晴らしく個性的な自己形成の
可能性が開かれているという期待にも転じ得ます。
メディアというのは五感の拡張ですから、例えば戦前の
日本よりも、五感に基づく記憶を豊かにできるかもしれない、
他の人と同じような記憶でも、メディアを介して他と
結び付けることで意味を深められるかも知れません。
そしてそれを手掛かりに、世界を認識したいという欲求が
生まれてくるのです。

しかし、大前研一言うところの「ひとり勝ちの時代」、
世界的に(そうです、世界的と言っていいでしょう。
アメリカの大統領選を巡る動きや、豪州の外交政策など
具体例はいくつも考えられます)
見られる保守化傾向の示すところから見て、
人類全体が安易にメディアに依存し、記憶に基づく個性的な
精神形成を推し進める方向には無いようです。

そんな時代、星という明確な基点を有している
内藤さんのような人がいることは、重要なことと思います。
小生は果たしてそのような基点を有しているのか
聊か心許ない気もしますが。
それはさて置き、星というのは抽象的世界認識手段たる
科学と人間の記憶を結びつける上で、なかなか有効な
媒体であろうかと思います。五感に与える印象が
鮮烈ですから。

綺麗な星空が戻ってきたら、少しは世界に関心を持つ
きっかけが増えるでしょう。
でも、そのきっかけとなる記憶を維持しつづけるのが
難しい世界情勢ではあります。
それよりもメディアでもっと権威有りそうで、
確実そうなのを探す。それが保守化だとかの
要因なんでしょうか。

以前から話していたことですけれど、
今自分が存在している世界を如何に把握するか・・・
それこそが人間のあらゆる精神活動の基幹だと思うのです。
そうであるはずだったのに、それが難しい時代になっている。
それは世界について既存の解釈で充分、新たな
解釈など要らないという考え方があるからでしょう。
F・フクヤマの「歴史の終わり」なる(小生から見れば
断固承知しがたい)概念も、そのような時代の産物かと
思います。なぜそのような概念が(ポストモダンとかの
考え方もこれに近いんでしょうか? 宮台真司とかの話を
読んだわけじゃありませんが、そんな印象があります)、
生まれるに至ったか、それはマルクス主義の失敗のみに
被せられるものではありますまい。内藤さんがおっしゃるように、
「それにたいして殊更注意を喚起するような声高な議論は、
耳障り」であると思わせるような何かが、今の世界を
跋扈しているのでしょうか。

長くなったどころではありませんね。
何を書こうか悶々と悩む内に支離滅裂です。
何しろ徹夜してうだうだ考えた(生活が乱れているので
夜眠れないだけ)挙げ句、夜明けに一気に書いた物で
相当弾けていますが、あえて推敲を加えず送ります。
近日中に、駒場でお会いしましょう。
それでは。