科学する心

Wissenschaft 1995より転載(一部加筆)


科学的とはどういうことか

現在の私達の生活に「科学」という言葉は深く浸透している。科学技術――一般にテクノロジーと呼ばれるそれ――を取り去れば私達が今の文明生活を送るのは不可能と言えるだろう(一部には現代科学を否定し、そこから脱却することで人間の生活が豊かになると主張するテロリストなどもいるが)。 日常会話の中でも、「心霊現象は非科学的だ」「科学的根拠がない」などと用いられることがあり、最近話題の某宗教団体も自称「科学的教団」であるとかないとか。 ところで、これ程身近になった科学だが、そもそも科学とは、どの様なものなのだろうか。科学的とは、どういうことか。

「科学的」という言葉が人に与える印象は様々なものだろうが、幾つかの共通したイメージがあるように思う。例えば、「合理的に考える」とか、「法則的、数学的に考える」とか、客観的な立場から、理屈の通った考え方をするというイメージである。 辞書に従って言い換えれば、「事実そのものに裏付けられ、論理的認識によって媒介され、原理的に体系付けられていること」を指す言葉である。それは現実の事象に忠実に、しかも論理性のある説明をもってその現象を認識しようという態度である。

 しかし、この言葉が持つ印象の一つとして重要なものに、「信頼できる」というイメージがある。つまり、科学に裏打ちされていれば信憑性がある、極端に言えば間違いなく正しい。確かに、科学で実証され、明らかにされたことも多いが、 科学という学問自体が今も推移しつつあること、完成されてはいないことが、意外に忘れられている。この状態が行き過ぎたところに所謂「科学信仰」が位置する。今定説となっている説や権威ある科学者の主張を鵜呑みにし、それに対立する主張を頭から受け入れず、根拠も不明確なまま非難、攻撃する (勿論、俗に言う擬似科学書の類の中には否定されてしかるべき怪しげな内容のものが多々あり、それらを受け入れるのは自由だが、疑っておいた方が賢明だろう)。

社会の中で一般に信じられており、常識とされているものを覆す主張を受け入れるのは困難であり、従来の説に安住していた方が社会も自身の身も安穏としていられるが、それでは世界は進歩しないし、歴史的に見ても大きな科学上の転換は決してスムーズには行われていないことは ガリレオの地動説や相対性理論の発表当時を考えれば分かる。新しい説を唱える場合、それ以前の科学を信奉(信仰?)する人々の激しい非難の嵐は避けがたい。現代でもなお、そうである。今相対性理論を否定する(擬似科学ではない真面目な)本に触れたとき、 多くの人は「何を馬鹿なことを。アインシュタインが正しいことは常識ではないか」と思う(相対性理論が証明されきっていない一つの仮説に過ぎないことは忘れて。何故忘れているのか、それは、同理論が正しいと言うことが常識として語られているからだ)。

これがくせ者なのだ。地動説以前の天動説は常識であり、進化論以前のアダムとイヴは常識だったのだ。常識、これこそ(といっても全てのものではないが)が科学信仰の一つの形である。「信仰」は時に盲目となり、狂信となる(先に挙げた宗教団体がよい例である)。 考えて欲しい。「論理的、客観的」なものが「盲目的、絶対的真理」として崇拝されるようになっても、果たしてそれが「科学的」と言えるのだろうか。

視点を変えて、「科学」とは何であるかを考えよう。一般の人が持つ科学のイメージは、化学、物理、医学etc.といった、理科の教科書のような、或いは理科年表1冊で足りるような一分野、またそれと共に高度に進んだ科学技術(例えば宇宙開発)を表しているかも知れない。 実際私達の身近なところにある科学はそういったものの断片である(日本の理科学教育でも同じようにとらえられているのではないか)。しかし、科学がその最初の、起源の段階で技術や体系化された理論として誕生したとは考えにくい。

科学――技術としてではなく、学問としてのそれ――は、主として身の回りに起こる現象、自然現象であるか人為的操作によるものであるかに関わらず、原因の究明されていない現象に、法則性や論理性を持ち込んで納得のいく理由や説明を求めているものだと思う。 辞書的な意味において、科学とは「世界の一部を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識」とされるが、そもそもの始まりにおいては自然認識であり、今でいう自然科学的探求心から科学が生まれたのだと考えられる。それは、初期宗教の自然神崇拝にも当てはまる。

ある本の中には、認識に時代区分を施しており、まず神話的思考が形成された始源都市文明、次に神話的思惟を超えて合理的な存在原理を追求し始めた哲学形成期、そして世界を数学化し客観化すると同時に支配するという理念を確立した近代科学思考という区分をつくっている。 内容の正否は知らず、非常に興味深いことに、神話、所謂神の存在と哲学、そして近代科学とが一つの流れの中に共存しているのである。まさに、宗教と科学は「認識行為」として基礎を同じくしているのである。人間のその段階での知を超えた部分を、超自然の力=神が司るとすれば宗教に、 そして神という力に頼らず人間の知を拡張していくことで論理的な理由を求めていく態度が科学につながっていく。このことは、後の章で述べていくことにする。

このことから、私なりの結論を出してみれば、科学とはあくまでも自然認識の手段であり、人間の知的欲求の現れであると思う。そして今ある科学文明は、むしろ技術文明であり、科学と共に進歩してきた技術と、深い関わりを持っている。



科学と技術

前章で、科学の持つイメージは科学技術(テクノロジー)と密接であるというような話をした。そこで、科学と技術の関係に注目したい。私達の生活は刻々と変わっていき、技術革新は今日においてもめざましい。歴史的に見ても、中・近世から近・現代に至る時代の変遷は、新しい技術の獲得と共に進んできた。 金属器、特に鉄器の発見による農業生産の増加などの古代社会の進歩、錬金術の繁栄による新たな元素の発見と化学の進歩、紡績技術や蒸気機関の発達による産業革命、原子力の開発による新エネルギーの獲得、ロケット技術の確立による宇宙利用、コンピューター技術の普及によるマルチメディアの進歩。 善悪は問わず、社会の大きな転換の立役者として、技術革新が一役買っていることも多い。

そうした技術の進歩に伴い、科学も飛躍的な進歩を遂げてきた。光学望遠鏡や電波望遠鏡の発達で天文学が進歩し宇宙誕生のシナリオが見えてきつつある。ロケットや人工衛星の実用化で太陽物理学や惑星物理学などを始め多くの発見があり、巨大な粒子加速器の開発で素粒子物理学が新しい成果を上げた。 殊に近代以降の化学の進歩は技術の進歩に裏打ちされて今に至っている。逆に、科学の発見も技術、工業に影響を与えている。

さて、科学が技術の発達に伴い進歩してきた歴史の中で、政治、殊に戦争というものが果たした役割は意外に大きい。第一次大戦ではドイツが飛行機や毒ガスなど新しい兵器を実用化し、第二次大戦では同じくドイツが今のロケットの原型となるV-IIを造り、ついにはアメリカによる核兵器の誕生を見ることになる。 現在の宇宙開発の技術も、冷戦下の米ソが国の威信を賭けて先陣争いをしたことで、わずかガガーリンから30年余りの間に300人近い人間が宇宙に飛び立ち、月まで行ってしまった。

東西冷戦という状況下で、国家的規模で進められた宇宙開発。また先に述べた戦争兵器開発。いずれも、短期間に驚くべきスピードで進歩してきた。それは、一つには他ならぬ国家という後ろ盾を得たからである。国が、自国の威信を守るための技術開発ならば、当然他国に負けるわけにはいかないという要求がある。 他国(アメリカから見たソ連邦、またその逆、など)より一刻も早い技術の獲得を目指す。そのため、採算度外視の一大国家プロジェクトとして、国が総力を傾けることになる。それらの技術の多くはトップシークレットであり、国家間協力による研究開発は、つい最近の話である。 そうした特殊技術の著しい進展が、後に一般に普及し、科学技術が今世紀に入り急速に発展する原動力となったと考えることができる。

ここまで、さも科学イコール技術というような口調で述べてきたが、しかし、科学と技術は異質なものであるという立場をとる人も多い。福井謙一氏は、著書の中で次のように述べている。科学は、人間が自然を描写し、あるいは抽象化し、その中で成立する法則性によって合理的に認識するものである。 一方技術は、そのような科学による自然認識の成果を生の自然に対して適用するものである。そして、適用したときの自然の反応が、楽なもの、便利なもの、所謂利便性を求める人間の願望や欲望を満たすものである時は、その技術は人間にとって甚だ魅力あるものとなる、と。

また別の本でも、今日は密接に関連しあっている科学と技術が、歴史的に見れば事実上別の道に沿って発展してきたとしている。科学は長い間実際的応用について無関心を通し、当の技術も長い間科学の助けを受けられず、科学の成果を期待できるような時でも故意にこれを拒否することさえあったと述べている。 著者によれば、科学と技術の協力が可能であることは17世紀初頭のベーコンやデカルトにより主張されたが、実行されるのは18世紀に入ってからだそうである(「科学と技術の歴史」フォーブス、デイクステルホイス共著)。

福井氏は、以上のことを述べた上で両者の関係についても話している。科学と技術は、現在では次第に緊密の度を加え、その間に明確な線を引くことが難しくなっている。科学における自然認識に補助技術、例えばコンピューターや物理測定器を必要とするからであり、 逆にこうした技術も科学の発達があって初めて進歩する。科学と技術はこうして互いにその進歩に影響を与え、一つの方向に発達する可能性を持っている。先に述べた「科学と技術の歴史」中にも、同じように現代の社会は科学に基礎付けられた技術が本質的な部分をなしていることを記してある。

こうして、本来異質のものである科学と技術を一緒にして「科学技術」と呼んでいる訳である。

この科学技術が、人間に利益をもたらし、特に周囲に害を与えるものでなければよい。しかし、際限もなく発達するとしたら、そしてその害毒が人間に降りかかってくるとしたら、どうしたらよいだろうか。科学技術の進歩に規制を加える必要はあるのだろうか。所謂「倫理規範」の問題である。 勿論、規制を加えるのは容易なことではない。人間の利益とはどのようなものか、一部の意見に左右されることはないか、規制してしまうことが果たして善なのか。簡単に結論を出すべき問題ではない。しかし、私自身は必要だと思っている。それがどのようなものか、はっきりと示すことは難しい。 このことは、後の章で触れておきたい。



科学と擬似科学

最近(とは言っても以前からのことではあるが)、擬似科学や超科学と呼ばれる本が書店の店頭を賑わしている。そのほとんどが、正統科学(この呼び方には些か違和感があるが)、つまり現在定説とされている学説を否定し、それらがいかに信用できないものであるか、 科学者、特に日本の権威ある科学者の頭がいかに古く堅いかを主張している。

例えば、アインシュタインの相対性理論は誤りであるとか、スティーブン・W・ホーキング博士の宇宙論を掴まえて、”大ウソ”であると扱き下ろしたり、といった具合である。皆さんの中にも、「ああ、そんな本なら知っている」という人も多いことだろう。 客観性を欠く言い方になるが、所謂怪しげなインチキまがいの本である。まあ、擬似科学の定義や危険性などは昨年の部誌(「科学に対する態度について」Wissenschaft 19994)に任せるとして、ここでは擬似科学について私が思うところを述べていきたい。

擬似科学に騙されるな、という。大抵の場合、擬似科学書の作者は正統科学を疑わせ自分の理論(屁理屈?)を信じさせようとする。正統科学の矛盾を指摘し、自分の理論の正しさの証明にしている。自分の理論の吟味はおろそかにされがちであり(既に正しいものとして扱っている)、それこそ押しつけであると思うのだが。

それはともかく、擬似科学の主張に騙されない、これは簡単なことである。彼らの主張を間違いとして耳を傾けなければよいのである。科学的態度とは言いかねるが、安易に信じるくらいならば疑っておいた方がよいだろう。

しかし、擬似科学の内容を否定する、これは至難の業である。擬似科学に疑問を持つ人の中には、自分の力で間違いを暴いてやろうと思っている人もいることだろう。しかし、一般の人々には、いや、或いは学者にも、擬似科学の主張を完全に否定することは困難であると思える。止めておくのが無難であろう。

彼らは、常識或いは定説となりつつある盤石な理論に真っ向から楯突こうとしているのであるから、在り来たりな反論のかわし方どころかやりこめ方まで、十分に知っているのである。私達一般の人間が、幾ら些細な知識をぶつけて反駁しても、痛くも痒くもないのである。 むしろ相手の言い分に頷いている自分を見つけて愕然とすることだろう。専門の学者ですら、彼らを論破するのは容易ではない。並大抵のことでは彼らを納得させられないどころか、余計に揚げ足を取られてしまう。正統科学の揚げ足を取るのが彼らの戦法だからだ。

何故学者さえもが擬似科学を打ち砕けないのか。理由は、学者の論理の基盤は正統科学にあり、それを基に幾ら正論を述べても、擬似科学者はその基盤を認めようとしないのだから、結局水掛け論でしかないのである。むしろ正統科学者の方が不利とも言える。 彼らは前提を破壊されるとものが言えないからである。相対性理論など、今の科学は証明が済んでいない仮説の上に成り立っている。いわば不安定な足場の上で議論しなければならないのである。一方の擬似科学論者は、元来基盤と言うほどのものは持っていない。 ただひたすらに相手の足下をすくい、議論のすり替えを狙っているのである。

具体例を挙げてみると、松田卓也神戸大教授が、複数の擬似科学書で槍玉に挙げられている。彼は擬似科学書のバッシング記事を掲載したため、彼らの正統科学批判の恰好の餌食にされてしまったわけである。

松田教授は、相対論擁護の立場から、私達がよく耳にするような説明で擬似科学の主張を否定しているのであるが、相対性理論の前提として、光速度一定(不変)の原理がある。これは、マイケルソン・モーリーの実験によって確かめられたこととされている。

ところが、個人名を上げれば、窪田登司という科学ジャーナリストは、その著書の中で、光速度一定はマイケルソン・モーリーの実験の解析ミスから導き出される誤りであるとしている。 詳しい説明は避けるが、光は電磁波であり物体ではないので、ガリレオの相対性理論を光に当てはめたアインシュタインの理論は間違っており、彼は光は光源の運動に関わらず一定速度で飛んでいくのだから、光の速度が増減して観測されることは当然あると訴えているのである。

松田教授はじめ相対性理論支持者が拠り所としている光速度一定の原理、さらに根拠となっている実験まで否定されてしまったら、もはや反論のしようもないのである。 前提の問題すら決着していないのに、その上にある理論の是非を論じるのは、結局最後まで水掛け論で終わってしまうのだ。

ここでは、彼の理論を否定しようとしているのではない(出来もしない)。彼の理論は、やはり完全に間違っているのかも知れないが、或いは、100年後には彼の理論が受け入れられているかも知れないのである。 ―と言っても、特殊相対論についていうならば物理学では実証的検証も積み重ねた紛れもなく「常識」であるのだが。― ただ、今の段階で、安易に正誤をつけてしまうことの危険性を言っているのである。

擬似科学書には上記のように論理的正統科学批判をするものばかりではなく、どうしようもないものも含まれている。UFO問題を取り上げたり、心霊現象を取り上げたりしているものなど、枚挙に暇がない。 これらの本は、確かに読者の好奇心を引きつける派手な事象を取り上げており、それはテレビ番組でもくだらない特集を組まれることがある。

それらはいわば権威嫌いともいったところで、NASAが故意に秘密を隠しているとか、学会は真実を見ようとしないとか、とにかく、他者の揚げ足取りだけで終わってしまい、自分の主張に対する検証は行われていない。 勿論、説得力を持たせるために幾つかの事例を出してはいるが、それはいずれも出所さえ特定できない断片的なものでしかない。これらを以て、自分の言うことを信じろとは、虫が良すぎるのではないだろうか。

擬似科学、単にインチキ本であるものも多く存在するが、中には一度読んでみて考えさせられるような本もある。それは、内容の真偽からすればとるに足らぬものなのだが、それ以上に、私達個々人の科学的知識がどれだけ論理性や知識に立脚して確立されているか、改めて等閑にしてきた足元を見直す契機をくれるに違いない。 そのような本が一般に普及しているのは、私達の社会の中で、科学というものが実に広く行き届いているためだろう。 だからこそ、私達は科学に対して閉鎖的にならず、広く門戸を開け放つとともに、正しい情報を自分で見極められるようにならなければならない。そうすれば、くだらない超絶図書に騙されることもなく、また斬新な意見についても理解をもてるようになるだろう。



唯物論と唯識論

科学と宗教、或いは哲学は、対立する概念として扱われる。そしてその構図は、そのまま唯識と唯物の対立構図として扱われる。昨年の部誌から拝借すれば、下のような構図である。

科学=物質=唯物論=ヘレニズム

宗教=精神=唯識論=ヘブライズム

ここで、唯物論とは精神に対する物質の根源性を主張する立場である。物質から離れた霊魂、精神、意識を認めず、意識は高度に組織化された物質(脳髄)の所産であるとする。平たく言えば、物質世界だけを信じ、その物質世界を本質だと考えるものである。 マルクス主義の唯物史観では、思想も宗教も、その時の社会体制や経済その他の状況などの諸要因によって生まれたものだとされる。

唯物論は古くインド、中国にも見られ、西洋では、古代ギリシア初期の哲学者達以来、18世紀のイギリス、フランスに代表される近世の機械的唯物論を経て、マルクス主義の弁証法的唯物観につながっている。 ヘレニズムはヘブライズム(ユダヤ教、キリスト教の思想の基をなすヘブライ人の思想、文化)と比較したギリシア精神である。

一方、これとは全く逆の考え方をとるのが唯識論である。つまり、本質は心であって、物質ではない。はじめに心があり、物質世界は後から生まれるものなのである。

そもそも、辞書的な意味において唯識とは仏教学説の一つで、一切の現象を心によって妄分別されたものとして説明するものであるが、ここでは広く精神のみが真の存在であるとしてこれを重視する「唯心論」の考え方を、唯識と呼びたい。 唯識(心)論とは、世界の本体を、物質的ではなく精神的とする、形而上学の一立場である。

さて、唯物、唯識はともに哲学的な立場で、世界の成り立ちを説明する態度だが、その両者は大きく対立する概念であるとも思える。 それは、両者が、科学と宗教という、二つの全く異なる(という印象を与える)ものと強く結びつけられているためではないだろうか。

唯物といえば先に述べたとおり、物質として観察されることを第一に考える。これは、実験、観察による実際の事象の認識から始まる科学の立場に近い。

逆に宗教は、精神世界が先にあり、それ故に物質世界が存在するという立場である。キリスト教では父なる神(この世界を超越したものとしての精神的存在)が創ったとされている故に精神世界が物質世界を創ったと言うことができる。 また、密教やヒンドゥー教などの一部では、ヨガの修行によって心の中に想い描くことが実現できるようになると言われている、らしい。

従って、殊に宗教意識の低い日本では、専ら唯物の方が受け入れられている観がある。科学に対する信用が高い日本では、宗教はあまり高い評価を得られない。 さらに、昨今の宗教団体問題で、宗教に対する猜疑心は益々高まってきている。宗教的唯識論は決して羽振りがよいとは言えない。とは言うものの、人間の精神そのものに対する関心は逆に高まっているようではある。

さて、この様な話をしようとしていたのではない。科学は本当に唯物なのだろうか、という話をしたかったのである。このような問いかけをすると、人は笑うかも知れない。 科学が唯識だというのか、精神で科学が分かるか、と。

しかし、ここで私が言いたいのは、今の科学が唯識だということではない(そう思っているわけでもない)。現在進行している科学、また科学技術は、おそらく紛う方なく唯物的立場であろう。 そしてこれからも、進歩していく科学が唯識に近づくとは考え難いと思っている。

それでは、何故科学が唯識だと、と言うよりは唯識の面を持っていると主張するのか。それは、科学の始まりを考えたとき問題となる。最初の章から述べてきたとおり、科学、哲学、宗教は一つの流れの中にある、という立場をとっている。 それは、世界、事物の根源の在り方、原理を理性によって求めようとする、哲学的な要求のそれぞれの形であるという考えに基づいている。身の回りの事象、そして宇宙全体の姿、延いては自分自身の存在を規定するために人間は哲学を生み出した。 その中で、特に現実(実際に目に見えるもの)に従い物事を見極めていく態度に出たのが今の科学の祖なのだろうし、絶対的第三者の存在を仮定したものが宗教なのだろう。

唯識を象徴するかのような一言がある。「我思う、故に我あり。」私は考える、故に私は存在する。17世紀フランスの哲学者、数学者、科学者であったデカルトの、あまりにも有名な言葉である。 この言葉はデカルトが方法的懐疑の末に到達した根本原理であるとされる。すべてを虚偽だと考えることはできても、そう考える自己の存在は疑えないとして、すべての確実性の基を考える自我にあるとした。 これは非常に哲学的な言葉である。しかし、この考え方が、今の宇宙観の一つにつながっているのだ。

次のような問いに、あなたは何と答えるだろうか。「宇宙は何故あるか。」あなたはこの問いに答えることができるだろうか。宇宙論の専門家からも、「宇宙はあるのが当たり前だから、そんな質問は意味がない」とか、 「どうせ答えは出ないのだから、考えるだけ無駄ですよ」という答えが返ってくることが多かったという。しかし、最近ではもっと積極的に考えられているようである。

まず宇宙とは何か、という問いには、従来は「宇宙とはすべてである」と答えられていた。全物質を含む全時間全空間である。「すべて」である以上それが存在するのは当然であり、「何故あるか」という問いは意味をなさない。 また、唯一全体のものである。これに対し新しい立場では「われわれと関わりをもつ範囲が宇宙である」と答える。関わりをもつというのは観測できるというだけでなく、思考が届く範囲ということである。

さて、「われわれと関わりをもつ範囲」が宇宙なら、その範囲に含まれない部分は何だろうか。常識的に考えて、「宇宙ではない何か」ということになる。例えば、私達の宇宙と同じような宇宙でもよいし、反宇宙でもいい。そんなものがあっても構わないのである。 とにかく、私達の宇宙は唯一全体でなく、たくさんの様々な宇宙の一つに過ぎず、こうしたたくさんある宇宙を超宇宙と呼ぶ。

ここで一つ注意しておくべきことは、いろいろな宇宙があるといっても、私達はそれらを観測することも、知ることもできないのである。勿論反論があるだろう。観測することも知ることもできないならば、そんなものは――私達にとって――存在しないのと同じではないか、考えても意味がない、と。確かに過去の宇宙論ではそう言ってこうした考えを一蹴してきた。

しかしそれでは「宇宙が何故あるか」という問いに答えられない。新しい立場では、どう考えるか。ここで先の超宇宙が意味を持つのである。つまり、超宇宙の中で、私達の宇宙の特徴とは何か、と考えてみるとき、その特徴が分かれば私達の宇宙が生まれたわけも分かるというのである。

では、その特徴とは?それは他ならぬ「私達自身」である。私達は人間である。人間の特徴を一言でいえば、「知的生命」ということになる。つまり、私達の宇宙は、「知的生命のいる宇宙」と特徴づけることができる。私達以外の知的生命がいるかどうかは知らないが、少なくとも人間という「知的生命がいる宇宙」が私達の宇宙である。

余談になるが、私達の宇宙には、光速、重力定数、プランク定数などといったある「決まった値」があり、これらは「知性」を誕生させるために決まったと思われるほど絶妙にコントロールされているらしい。コントロールといってもそこに意思が介在していたわけでは当然ない。このバランスが宇宙を支配していたからこそ、 私達は今の姿で今の世界にあるのである。物理パラメーターがわずかに違っていたら、今見えるものとは違う世界が構築されていたのだろう。

唯物唯識論議からやや脱線しているが、もう少し宇宙論の話にお付き合いいただきたい。さて、「宇宙は何故あるか」という問いに、どうして知的生命の存在が関係するのか。知的生命の特徴は知性である。意識と言いかえてもいいだろう。意識があるから、私達は宇宙の存在を認識できるわけである。 認識された宇宙は存在する宇宙である。逆に、ある宇宙に知的生命がいなければ外から知ることもできず中から認めるものもいず、その宇宙は誰にも認識されない。認識されないということは、「あってもない」ということである。そんな宇宙は存在し得ない宇宙である。 「認識」を基準にすると、超宇宙には「存在する宇宙」と「存在しない宇宙」があることになる。「宇宙は何故あるのか」という問いには、「知的生命」がいるからと答えることができる。「人間が宇宙を認識したとき、宇宙は存在した」ということができるわけである。

この立場は、宇宙の中心に人間を置いて考えているので、「人間原理の宇宙論」といわれる。認識の仕方が哲学的なので、まだ主流派にはなっていないが、哲学的といっても、勝手に考えているわけではない。私達の宇宙以外に超宇宙があるという議論は、私達の宇宙が誕生したとき、同時に”10の70乗”個の宇宙が誕生したとする「インフレーション理論」などにより可能性を示唆されている。 また、われわれの宇宙が唯一全体のものでなく同じようなものがたくさん存在するという考え方は、現代の「平等宇宙観」にも則っている。

こうして長々と人間原理の説明をしてきたが、これはデカルトの言葉そのままではないだろうか。人間が認識して初めて宇宙が存在する。人間の意識が存在することが宇宙の存在の大前提となるのである。

或いは、反論する人もいるだろう。もととなる物質がなければ意識も誕生しないと。しかし物質だけが存在しても、認識行為は行われない。あってない宇宙とはまさにこのことである。

宇宙を認識し、自己を認識する知性。これを自我といい、意識というのだったら、科学も哲学であり、始まりは唯識だったのではないだろうか。



科学と宗教

先の章で、科学と宗教(宗教の初期段階としての自然神崇拝)が根を同じくするというような話をした。そして、それはともに自然認識の手段として誕生したと述べた。このことをもう少し掘り下げてみたい。

科学と宗教に類似点がある、それどころか実は同じ経過を辿って誕生したという話を聞いたとき、多くの人は首を傾げることだろう。何故ならば、現在の私達の感覚では、科学と宗教は相容れないもの、共存しがたいものと考えられているからだろう。 特に、明治維新以降西洋の近代科学文明を享受した日本では、見本となった西洋以上に宗教がその地位を科学に追われている(それは、価値観の転換があまりにも急だったことによるのかも知れない)。そのため、日本人の感覚では、宗教は科学によって否定され得るもの、極端に言えば科学の進歩によって消滅していくものととらえられている感がある。 今では宗教は冠婚葬祭の儀式の形式、或いは精神的拠り所としての存在になりつつある。

もっとも、日本で主に信じられている仏教は、その発祥自体が人生の苦痛から逃れるために悟りを開くことを目的としており(ブッダ(仏陀)という名は、覚者、つまり目覚めた人という意味を持つサンスクリット語である)、それは世界を説明しようという態度からはずれている(とは言うものの、仏典の中には、天文学や物質科学、医学など、 当時の「科学」知識を網羅し、リードするものもあり、仏教なりの確固とした宇宙観を持っているが)。自然の力を人格化した神を信仰するのではなく仏教の主体はあくまでも修行する人間そのものだから、仏教が最も身近な大部分の日本人にとって、自然科学と宗教は別次元であり、また聖書などの記述は科学によって完全に否定されるべきだという印象を受けるのだろう。

しかし、これが他の宗教だと事情が変わってくる。それらの宗教では神は自然神として誕生したものだから、それは人間の自然に対する畏れの現れである。森の大木、老木を神聖なもの、守り神として信仰する自然崇拝、例えば世界中で見られる太陽崇拝はその最も顕著な例である。 それは驚異的な自然の力を鎮め、恵みをもたらすことを祈るが、自然現象を司るものに形を与えている点で、自然認識ということができよう。代表的なものとして、日本の土地神や、ギリシア神話の神々、古代エジプトの太陽神ラーなど、自然物に形を与えているものは数多い。 さらに、ユダヤ教とその流れを受けるキリスト教にとって唯一神として崇拝されるヤハウェ(エホバ)神も、元を辿ればオリエント地方の一自然神として雷を司っていた下積みの時代があるのだ。

これらの宗教は、いずれも世界の誕生を描写する神話、伝説を携えている。旧約聖書では神が「光あれ」と言い天地が開闢し、6日間で世界を造り、アダムとイヴが生を受け…となり、日本の神話では伊弉諾尊と伊弉冉尊が日本を生み…というように、世界が如何にして生まれたのかを説明しようと試みている。 同時に、宇宙の姿として明確なイメージを持っている(例えば女神が天を支えるエジプトの宇宙像や、天動説のキリスト教など)。これこそ、宗教が自然を司るものとしての神を生み出すことで世界を、ひいては自分自身の存在(自己)を説明しようとする自然認識の方法であることの結果、いや、これこそが宗教の誕生した目的なのだろう。

ここで一つの疑問が浮かぶ。宗教が自然認識の方法であるならば、今のように細かい戒律によって生活を左右するような存在であるだろうか(戒律は、今では一般に宗教における生活規律を指すが、元々は仏教で僧団の生活規律を指す言葉であり、「戒」は自発的に規律を守ろうとする心の働きを、「律」は他律的な規則を表す)。 それでも宗教は自然認識なのだろうか。確かに、今ある諸宗教を自然認識手段としてとらえるのには違和感がある。それは、宗教が規律として生活を支配しているからである。

例えばユダヤ教では人々が本来拠るべき内面的規範としての律法が重視された。それは後に形式主義化し、律法主義(パリサイズム)としてイエスに批判されることになる。また、イスラムでも、五行(守るべき努め)として、信仰の告白(シャハーダ:「アラーの他に神はなく、ムハンマドはアラーの使途である」と唱える)、礼拝(サラート:1日5回メッカに向かい祈る)、 断食(サウム:イスラム暦9月の間の日中は、食事ばかりか水も口にしない)、喜捨(ザカート:貧しい人への施し)、巡礼(ハジ:一生に1度メッカのモスクに巡礼)というものが定められている。

このように、厳しい戒律を守らなければ、神の恵みは受けられない。と言うよりは、社会から疎外される。これは、排他的な選民思想の激しいことにつながる。神を信じるもののみが救われるのである。そしていずれも明確な一神教である。彼らの神が唯一絶対の神であり、他の神は神と認められず、攻撃の対象とされていることと深く結びついているように思う。 自然神が一つの自然現象を司るものとしての存在であるのに対し、唯一神では神は全知全能の存在であり、人間は神に対し絶対服従である(勿論自然神であっても逆らうことはしないだろうが)。神が絶対者であるとき、その言葉(多くは経典の言葉)も絶対である。某宗教団体の場合でも、たった一人の人間を絶対者として崇拝したことから、その言葉は絶対視され、 信者は生活を規律の外におくことはできなくなる。唯一神の概念では、人間は神の言葉(神が定めた規律)に背くことは許され得ない。このようにして、人間はその生活を自ら生み出した宗教によって管理され、支配されていく。

一方自然神崇拝では、神は人間の生活を直接に管理するものではない。人間が神に対して抱く畏れ故に神を重んじ、タブーをはじめとするルールも生み出されるが、人間の生活すべてを方向付けるものではないだろう。あくまでも神の怒りを買い天罰を受けるのを恐れてのことで、絶対者としての神の言葉を神聖視するのとは異なる。

また、仏教における戒律は、むしろ儒家にとっての孔子の教えのようなもので、仏を云々と言うよりは自分のみを修め、仏教では悟りを開くため、儒教では仁を実践し君子となるために必要な規律であると思う。

さて、科学と宗教という話題から少しそれたが、科学も宗教もいずれも自然認識、つまり自然現象の描写だということで、実際に同じ自然現象をどのように捉えているかみてみたい。

例えば雷である。科学的な説明では、「温度差の大きい大気中で雲が動くとき、雲中の電気が分離し、上部がプラス、下部がマイナスに帯電する。雲と地上の間に100万ボルトの電圧が生じ、10分の1秒間に10万アンペアの電流が流れる放電現象が雷である。ジグザグに走るのは一番抵抗の少ない、水蒸気の多いところを通るからである。 雷鳴は電気的衝撃により空気中の原子から電子が飛び出し、粒子数が増加して空気の圧力が急激に増加、膨張して、叩かれる周りの空気から音波が発生することで生じる」となる。

一方、宗教の世界でも、洋の東西を問わず崇拝の対象とされてきた。中国の上帝、ギリシアのゼウス、インドのインドラ、またヤハウェ神までも、自然の雷を操ることは神聖さの象徴だった。まさに「神鳴り」である。古代インドの『リグ・ヴェーダ』には、インドラはヴァジュラ(稲妻)をふるい、悪と戦う勇猛果敢な英雄の姿をしている。 つまり、自然の猛烈な現象である雷を司る神を想定していたのである。科学と宗教、どちらにしても自然現象の説明として生み出されたものであることは分かるのではないか。

私見になるが、宗教とは自然認識であるという立場から言わせてもらうと、今の宗教、特に新興のカルト教団はみな宗教の本質からはずれている。だいたい、特定の一人物を崇拝するのは、宗教のあるべき姿ではない。そもそも人間が人間を、尊敬することはあっても絶対化し崇拝するべきではない。 一人の人間の価値観が絶対的なものとなって成功したことはまずない。専制君主制やヒトラーを持ち出すまでもなく、人が人の上に絶対者として立つのはよろしくない。逆に言えば、今の社会ではそうでもないだろうが、人を従え支配者たるのに、神の権威を借りるのは有効であり、歴史上数多く繰り返されたことである。 秦の始皇帝も、宇宙万物を主宰する絶対神「上帝」を自ら称し、「煌々たる上帝」即ち皇帝を名乗った。またその首都建設に際しては、上帝の居所である天極を地上に現した。またエジプトのピラミッドがナイル川を天の川に見立ててオリオン座を象っているという説は有名である。

それに加え、その他の宗教も含め宗教そのものの性格が自然認識から精神的なものとしての存在に変わってきている。それ自体を悪いと言いはしないし言うこともできないが、宗教が本当に発生した意味から言えば、神の存在が形式化され、自然(神)に対する畏れが失われている。筒井康隆流に言えば、 「神はすべて地に堕ちる。なぜなら宗教はすべて、非日常的な本質を日常的な常識の鎧で覆い…(中略)…これが故に神への畏れをなくし、神様いいひと優しいお方、正義の味方よほいさっさ。そして宗教は、権力者による道徳、体制的な習慣(ならわし)の手先となり…」(『ジーザス・クライスト・トリックスター』より) このように形式化された宗教は、進歩することができない。これが科学との大きな相違点である。科学は少しずつだが新たな成果を得て、進歩することができる。しかし、宗教――特に唯一神的宗教――では、絶対である教典が全てである。そこからはみ出すものは否定されなければならない。 かつて新大陸に渡った敬虔なキリスト教徒達は、聖書に記されていない動物がいるのを恐れ、全て殺したそうである。今では、一部のファンダメンタリストのみが聖書を頑なに守っている程度だが、もはや自然界を全て語り尽くすには、数百年も昔の神では役不足ではないかと思う。

宗教が生き続けるには、科学の及ばない範囲へ逃れるしか術はない。自然認識として、科学がこの世界を覆いつつある今、科学の手が届かない、つまり宗教が支配するべき場所は精神世界しかない。人が、不安を持つ死後の世界や魂の世界は、物質として観測される世界ではないために、科学によって説明され得ない。 宗教が人間の心に訴える存在であるのは、そうした姿でしか宗教の存在できる余地がなくなったためなのだろう。

歴史上、変革を遂げた宗教と、進歩し続ける科学が、最も住み分けが進んでいるのが、実は現代なのかもしれない。



科学の進むべき道 〜科学と倫理規範〜

人が未来を想像するとき、そこは必ずと言っていいほど科学技術文明の高度に発達した世界である(1999年を信じる終末思想者は、何を考えているか知らないが)。今世紀に入り特に急激に発達した科学技術は、私達が生きてきたほんの僅かな期間にも、驚くべき速さで進んできている。 人は科学技術の進歩に少なからず期待を抱いているが、しかし時として人類にとってマイナスとなるものを伴うこともある。

例えば、産業革命以降常に工業に伴って発生してきた様々な公害問題。兵器の開発に伴う戦争の大規模化、それは遂に最終兵器としての核兵器を生み出すに至った。近年では環境問題として地球温暖化やオゾン層の破壊などが進行し、 また医療においても、新薬の開発により新たな副作用や血液製剤によるHIV感染者を生み出している。

こうした直接的な被害を及ぼすもの以外にも、人工中絶の道徳的問題や、遺伝子治療の可否、末期医療の是非など、道徳や倫理の問題が取り上げられるようになってきた。

これから科学を発展させていく中で、このような問題に突き当たることはますます増えていくことだろう。その中で、果たして科学は今後どのような発展をすればよいのだろうか。所謂「倫理規範」の問題である。科学は進むに任されるべきなのだろうか、それとも人類がマイナスと認めるようなものは初めから放棄されるべきなのだろうか。

私見を述べれば、倫理規範は必要だと考えている。それによって、人々を科学の副産物である様々な害から守り、また人々の権利も守られるべきだと思っている。できることなら、成文化したものではなく、科学者のみならずすべての人間がある程度共通した倫理観をもち、何の軋轢もなく進むのが理想的である。 しかし、社会から倫理や道徳、公徳心といったものが失われつつあり、自分のみ安寧ならば何でもよし、という風潮が強まっている。その中で、人の良心に訴えるのは効果を見込める方法ではない。さらに、最近の宗教団体の問題を見れば、その良心と呼べるものすら疑わしく、他者を思いやれる心が失われていることを改めて認識させられる。 性善的な解決が期待できない以上、紳士協定を結ぶ他はない。いずれ、明確な規定が必要になるのではないかと考えている。

しかしながら、科学の進む方向をあらかじめ限定してしまうというのは、実に危険なことでもある。そこには客観性が求められるが、決定が一部のものに左右されることが懸念されるし、特に権力の介入は避けなければならない。それは科学そのものが一部の利権のために誘導されてしまう危険性をもはらんでいる。

さらに、自由な研究が進められなくなることは、科学そのものの進歩にも重大な影響を与えるだろうことは、想像に難くない。今現在での基準によって、未来まで科学の進路を限定してしまったら、おそらく科学の進歩はそこで止まってしまうだろう。

要するに、科学の発展は、両刃の剣なのである。科学は常に新しいものを求め、それによって社会も前進する。新しいエネルギーが獲得され、新しい機械が生活を便利にし、難病も克服されて平均寿命も延びた。しかし同時に、人間に対して害をなす場合もある。そんな一面にこだわり、科学を束縛してしまえば、今の科学文明の繁栄もいずれは過去の遺物になってしまうだろう。

私が求める倫理規範とは、福井謙一氏の言うところの、「科学の研究における善、そして――もしあるとすれば悪――の区別」を見分けるための判断基準と同じものである。それが、彼の言う「地球遺産の保全と人類の持続的生き残り」であるかどうかは分からないが。しかし、今人々が核廃絶を叫び、地球環境の保護を訴えるのは、まさにその精神なのかもしれない。

科学技術の自己規制が、理屈としてではなく倫理規範として人間の心をとらえるようになる。福井氏の期待に、私も同感である。人間が、自らの心に照らして正しい進路を選ぶことができるようになったとき、初めて人間は「知性」を持ったと言えるのではないか。



もう一度 科学的とはどういうことか

宗教を擁護する立場になくとも、「科学では計り知れないことがある」という人がいる。これは明らかに真である。要するに正しい。一世代前に比べ、私達の時代の科学がもたらした新事実は数多いが、それでも尚、謎の領域は多い。次々生まれてくることもある。

しかし、「だから科学は間違っている」というのは、行き過ぎた定義であり、誤りである。

アイザック・アシモフといえば、SFなどの多数の著作で非常に有名な人物である。彼の著した『誤りの相対性』という本の中で、次のような内容の部分がある。

ある英文学専攻の学生からの手紙の中に、次のようなことが書かれていた。彼の様々な著作の中で、「現在では宇宙を統べる基本法則が知られるようになり、1905年から16年に完成された相対性理論により説明された。原子より小さい世界を統べる基本則。これも、1900年から30年間で完成された量子力学により説明された。 宇宙の構成単位である銀河群の発見も、これらはすべて、20世紀の発見なのである」とある下りを引用し、さらにある事実について追求してきた。どの世紀の人々も遂に宇宙を理解したと考え、どの世紀にもそれが間違いであると立証された。現在の「知識」に関して言えることは、ただ一つ、間違っているということだ、というのである。 その意見を是認するものとして、ソクラテスの言葉が引用されている。「本当にギリシア一の賢者であるとしたら、それは、私だけが己の無知を知る人間だからだ」というものである。

この言葉は、「これを知るを知ると為し、知らざるを知らずと為す、是知るなり」(『論語』為政編)の孔子と同じことを言っているように思う。「知る」という認識作用を、人間理性の働きとして非常に合理的に述べている。何処までが分かって、何処からが分からないのかをはっきりと区別することが知の働きなのである。 知と不知とを峻別する合理的態度の現れとして、自分の行動を立派なものにするためには、多くのことを広く見聞した上で疑問の残る曖昧なものを排除し、確実と思われるものを摂取していくように説いている。「多く聞きて疑わしきを闕(か)き、慎みて其の余を言えば、則ち尤(とが)め寡なし。多く見て殆(あや)うきを闕き、慎みて其の余を行えば、則ち悔い寡なし」

これに対立する概念として、仏教で、最高の知恵である般若について、「般若の知恵は形を取らない」といわれる。ここまで分かり、ここからは分からないというはっきりとした形をもった知識は、確かに部分的な知識であり、全体を見通す窮極的な知識から言えば不完全である。 「知る所あれば、則ち知らざる所あり」で、これが分かったとすることは同時にその外に分からないものを残したことになる。部分的な知識に安住しないためには、分かったことと分からないことを合理的に区別するのではなく、無知の境涯を目指さなくてはならない。「聖心は知る所なし」で、知る所がないからこそ「知らざる所なし――すべてを知る――」のである。 知と無知とを分けないところに、「不知の知」としての「一切知」がある。

さて、話を戻すが、この若者の手紙にアシモフはなんと反論するのだろうか。かつて同じような論理に対し、彼は次のように答えている。「地球は平坦であるという考えは間違っていた。地球が球であるという考えも間違っていた。しかし、あなたが、地球が平坦であるという間違いと地球が球であるという間違いを同じことと思うなら、 あなたの考えは二つの考えを合わせた以上に間違っている。」

彼は言う。何も知らないものは存在しない。もっとも、ソクラテスの言う知はそんなつまらないものではない。人は十分に吟味されていない先入の概念を捨て去って出発するべきであり、それを認識するのはソクラテス一人だと言っているのである。

ソクラテスは論争においては、終始一貫して私は何も知らないので教えて欲しいという態度をとった(例えは悪すぎるが刑事コロンボを想像して欲しい)。無知を装って相手を油断させ、相手に抽象概念に関する自分の理論を提言させる。そして馬鹿げた質問を次々浴びせることで相手を自己矛盾に陥れ自分自身の理論を全く理解していなかったと認めさせるのである。 ソクラテスは、彼が小突きまわす哀れな論敵よりも自分の方がはるかに多くを知っていることを熟知していたのだ。

人間は「正」と「誤」の概念を持っている。そしてそれはしばしば絶対であると考えられる。 2+2=4 は正解であり、それ以外の答えはすべて誤りである。しかし、 2+2=17 と 2+2=22 では、どちらも間違っているが、後者の方がひどく間違っているとは言えないだろうか。同じ問題に、正の整数或いは偶数と答えたら、正解ではないのか。 3.999 と答えたら、正解に近いのではないか。結局、彼の言いたいことは、正誤は相対的なものであり、そこで問題となるのは程度なのだということである。

確かに先の学生の言うとおり、どの世紀の科学者も宇宙の解明ができたと考えながら、結局はすべて間違っていたのである。しかし、どれだけ間違っているか、それが大事なのである。

人類は最初は地球が平らであると考えていた。堅実な証拠をもとに、起伏の激しい地上を見てなおかつ凹凸を平均すると一律に平らになると考えていたのである。

地表の湾曲についてはどうか。長い距離を見通した場合、平均してどれだけ曲がっているのだろうか。かつて、それは完全に平坦であり、曲率は1マイル(本文からの引用のため単位はヤードポンド法)につきゼロといわれた。

現在では、それは誤りであると教えられる。しかし、地表の曲率は確かに1マイルにつきほとんどゼロなのである。この点に関して、地球平坦説は正しいのだ。

紀元前350年頃、ギリシアの哲学者アリストテレスは、地球が丸いことを説明した。それから1世紀後、エラトステネスは緯度により異なる影の長さから地球の大きさを計算し、円周が約4万キロであることを発見した。この時の地表の曲率は、1マイルあたりで約 0.000126 である。「1マイルあたりゼロ」に非常に近く、古代人では測定のできない値である。 この微妙な差のために、地球の概念が平坦説から球体説に移行するのに長い時間がかかったのだ。

では、地球は本当に球体か。厳密には数学的な球体ではない。木星や土星を見れば、明らかに楕円である。地球も自転の影響で、赤道付近が膨らんだ偏球なのである。赤道直径は1万2755キロ、極直径は1万2711キロ。1パーセントの3分の1のひずみである。

さらに精密な観測がなされる中で、地球が洋ナシ形であることが明らかになった。

先程の学生も、まさか地球が実は立方体であったなどという日が来るとは思ってもいまい。明らかに、人間は地球の真実の姿に近づいているのである。

20世紀の相対性理論や量子力学についてもそうである。ニュートンの運動や重力の理論はきわめて正しく、光速が無限であれば絶対的に正しかったはずである。ところが光速が有限であるとなったために、相対性理論が必要となった。そしてそれはニュートンの方程式が拡張、修正されたものである。 訂正されたのは、光が1メートル進むのに、ゼロ秒なのか、 0.0000000033秒かかるかの、僅かな違いだけなのである。しかし、この微々たる差は、ニュートンの時代には測定できるわけもなく、予測されない方がむしろ自然なのである。

このように、理論の修正はますます細部にわたっていく。古代の学説は、次の進歩につながるだけの正しさがあり、その後の進歩によって破棄されるものではない。

古代ギリシア人が紹介した緯度、軽度の概念は今でも用いられている。

ニュートンの引力の法則は、距離や速度が途方もなく大きくなると破綻してしまうが、太陽系に関しては完全に適用できる。ハレー彗星は、ニュートンの法則で予測されるとおりに回帰する。 ロケット工学はニュートンの法則に基礎をおき、ボイジャー2号は予想時間に外れること僅か1秒以内で天王星に最接近した。

19世紀、まだ量子力学が夢想だにされていなかった時代に確立された熱力学の法則。エネルギー保存則も、エントロピーの必然的増大の法則も、また運動量保存の法則や電荷の保存則も確立された。マクスウェルの電磁気の法則も然りである。そしてそれらは今でも揺るぎない理論である

先程の学生によれば、現在の学説は誤りとみなされるようになるかも知れないが、もっと厳密で微妙な感覚からすれば、それらは単に不完全とみなされるだけである。

例えば量子力学と相対性理論が結合され、大統一が成し遂げられても、相変わらず細かい修正が繰り返されるだろう。

科学は日々進歩している。例え途中でとんでもない横道を掘っているとしても、着実に真実に近付いていくのである。過去の人々が間違っていたのではなく、今の理論が完全なのではなく、すべては一つの大きな流れの中のその時々の成果なのである。

人間が、新しい謎に阻まれながら真の宇宙像に辿り着こうと挑み続ける限り、科学はいつまでも、絶え間ない進歩の学問であるのだろう。


<了>


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