Berlin Wall


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ドイツと「壁」の歴史

1871 ドイツ帝国成立-ドイツ史上初めての統一国家
プロイセンのヴィルヘルム1世が初代皇帝)。
1888 ヴィルヘルム1世没。
フリードリッヒ3世の後、ヴィルヘルム2世が即位。
1914 6月28日、セルビア人青年がオーストリア皇帝夫妻を暗殺。
オーストリアはセルビアに宣戦。ロシアはセルビアを支援。
ドイツはロシア・フランスに宣戦。 [第一次世界大戦へ]
1918 皇帝ヴィルヘルム2世退任、オランダへ亡命。
ドイツ初の共和国成立。(ワイマール共和国)
1919 ヴェルサイユ条約(ドイツにとっては予想以上の苛酷な内容)。
ヒトラー、ドイツ労働者党に入党。
1920 ドイツ労働者党は「国民社会主義ドイツ労働者党」(ナチ党)と改称。
1923 ヒトラー、ミュンヘンで蜂起するも失敗。
(投獄され、獄中で「我が闘争」を執筆。)
1933 1月30日、ヒトラーを首班として内閣成立。
1934 ヒンデンブルク大統領 没。
ヒトラーが大統領職を兼ねる国家元首となる。
1935 ニュルンベルグ法によりドイツ公民の定義を法制化。
一般兵役制を採用。
1938 オーストリア併合。チェコスロバキアはズデーテン地方を割譲。
1939 9月1日、ドイツがポーランドに侵入。
9月3日、英・仏がドイツに宣戦布告。[第二次世界大戦へ]
1945 ヤルタ会談。米・英・仏がドイツ西部を、ソ連が東部を占領することで4ヶ国合意。
4月30日、ヒトラー自殺。ドイツ無条件降伏。
首都ベルリンは4ヶ国の共同占領下に置かれる。
1946 SED(社会主義統一党)--のちの東ドイツ政権党--結成。
1933年以来、初めてまともな選挙が行われる。
1948 6月、西側3ヶ国が通貨改革を実施。ソ連は強く反発し、西ベルリンを封鎖。陸の孤島となった西ベルリンに、米・英は空輸によって食料、物資を供給。
1949  5月,西側占領地区がドイツ連邦共和国(西ドイツ)として発足。
10月,ソ連占領地区がドイツ民主共和国(東ドイツ)として発足。
1955 西ドイツ、NATOに加盟。冷戦による東西対立が深まる。
1961 8月13日、「ベルンの壁」構築。国境閉鎖。

「壁」崩壊への道程
〜東ドイツ〜
1988
1月15日
ベルリン社会主義者墓地で民主化要求デモ。
10月7日
東ドイツ建国39周年記念日。5人の高校生が「国際協調時代に軍事パレードは時代錯誤ではないか」という主張を壁新聞に掲載し放校処分。
11月 
「スプートニク」発禁事件。「スターリンがいなければヒトラーはあり得ただろうか」の記事が発端。事実上の検閲制度に対する抗議行動が広まる。
1989
5月7日
一斉地方選挙。
投票率98%台、うち98%信任の結果発表にに疑惑。
6月4日
中国で「天安門事件」発生。
東ドイツは中国政府の武力介入を擁護。
6月7日
5月7日の選挙無効を訴え、ベルリンで2000人が抗議行動。400名が「反革命」を理由に逮捕。
8月19日
ハンガリーがオーストリアへの国境越えを黙認。ブダペストは噂を聞きつけた東ドイツ人が急増。
9月11日
ハンガリー政府は東ドイツとのビザ協定を停止。オーストリアへのハンガリー経由の出国を合法化。東ドイツ政府はこれに激しく抗議。
9月30日~10月1日
東ドイツ政府は、プラハの西ドイツ大使館へ逃げ込んだ東ドイツ人を西ドイツへ追放するという超法規的措置を実施。
「わが社会からはみだした者を惜しむ涙など流すまい!」の声明発表。
10月3日
東ドイツ政府はビザ免除によるチェコスロバキアへの出国制度を一時停止。
10月7日
ゴルバチョフ列席のもと建国40周年記念式典挙行。夕方から各地でデモが広がる。ベルリンでは、アレクサンダー広場で「国家公安省解体!自由を」と叫ぶ若者たちに7000人の市民が呼応するが当局により解散させられる。
10月8日
ベルリン・ゲッセマネ教会前で前日のデモ弾圧に対する抗議デモ。約2000名の若者を当局は容赦なく弾圧、負傷者多数。
10月9日
ライプツィッヒの月曜デモ。ゲヴァントハウス管弦楽団常任指揮者のクルト・マズアら6名がデモの平和的対処を求める「アピール」をもって、市当局へ出向く。軍隊は出動準備をしていたがSED政治局員のクレンツ(当時)の判断で警備当局不介入を決定。7万人のデモ参加者が「我々こそ人民だ!」のシュプレヒコールとともに行進。
10月16日 ライプツィッヒの月曜デモは12万人規模となる。
10月18日 ホーネッカー書記長解任。後任にクレンツ政治局員。
10月22日 日曜対話。「ライプツィヒ・アピール」署名者たちと市民との対話集会が新ゲヴァントハウスで開かれる。
10月24日 人民議会第10回本会議でSED新書記長クレンツを国家評議会議長(国家元首)、国防評議会議長に選出。議事の模様が初めてTV中継される。
10月28日 不法出国者とデモ参加による逮捕者への恩赦発表。
10月29日 当局の呼びかけで、日曜対話集会が全国各地で開催される。ベルリンでは2万人以上が参加-政治腐敗を糾弾。
11月3日 マルゴット・ホーネッカー(ホーネッカー夫人-国民教育相)、ミールケ(国家公安相)ら5政治局員が解任。
11月4日 ベルリン50万人デモ。言論・表現・集会・結社の自由を定めた憲法27条,28条の真の実現と刑法の国家反逆罪条項の撤廃などを要求。デモ参加者から警官への呼びかけ「着替えて、私たちの列に加わりましょう!」。
11月6日 政府は国外旅行法を発表。しかし内容は年間30日以内で外貨の裏付けもなく国民は失望。
11月7日 人民議会委員会は国外旅行法を否決。シュトフ内閣総辞職。
11月8日 SED第10回中央委員会総会で全政治局員更迭、新政治局員選出、全党会議の12月召集を決め、本部前で緊急党員集会。
11月9日 新国外旅行法案により、東ドイツ国民の西ドイツ、西側諸国への旅行、出国、移住の自由化を発表。自由通行を保証するため西ベルリン,西ドイツとの境に、新たに約25の通過所を設置したが、待ちきれない人々が続々と通過所に押しかけたため、遂に深夜から検問なしの自由通行が実現。
「ベルリンの壁」解放
11月10日 東西ベルリンで政治集会。西ではコール首相がポーランド公式訪問を一時中断して帰国し出席。東ではSED党員集会に15万人が参加し、党の統一と刷新を要求。
11月13日 首相にSEDのモドロウが就任。ライプツィッヒの月曜デモに20万人が参加。
11月28日 コール西ドイツ首相、連邦議会にドイツ再統一を目指す10項目方針を提出。
12月1日 人民議会第13回本会議で憲法第1条からSEDの指導的役割を規定した項目を削除。SED幹部の汚職・犯罪等が多数明らかになる。
12月3日 SED中央委員会と政治局が総辞職。ホーネッカーを党から除名。
12月4日 党幹部の汚職・腐敗に対する怒りから暴力行為、リンチの危険が広がり、知識人・文化人有志が政府と国民の理性に訴えるアピールを発表。
12月6日 クレンツ、国家評議会および国防評議会議長を辞任。代行に自由民主党のゲルラッハ。
12月19日 ドレスデンで両ドイツ首脳会談。「条約共同体」の追求、文化協定締結、経済関係の深化など。ドイツ統一要求デモにコール首相の方が困惑し、10項目方針を将来の課題と強調。
12月22日

コール首相、公式に東ベルリン訪問。

ブランデンブルク門付近の壁に通過所が新設され、ブランデンブルク門は東西分断の象徴から東西和解の象徴となる。

[参考資料]
「知の扉 新しいドイツへ」 浅川千尋編 晃洋書房
「ベルリン1989」 東ドイツの民主化を記録する会編 大月書店




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