1988
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1月15日
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ベルリン社会主義者墓地で民主化要求デモ。 |
10月7日
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東ドイツ建国39周年記念日。5人の高校生が「国際協調時代に軍事パレードは時代錯誤ではないか」という主張を壁新聞に掲載し放校処分。 |
11月
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「スプートニク」発禁事件。「スターリンがいなければヒトラーはあり得ただろうか」の記事が発端。事実上の検閲制度に対する抗議行動が広まる。 |
1989
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5月7日
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一斉地方選挙。
投票率98%台、うち98%信任の結果発表にに疑惑。 |
6月4日
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中国で「天安門事件」発生。
東ドイツは中国政府の武力介入を擁護。 |
6月7日
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5月7日の選挙無効を訴え、ベルリンで2000人が抗議行動。400名が「反革命」を理由に逮捕。 |
8月19日
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ハンガリーがオーストリアへの国境越えを黙認。ブダペストは噂を聞きつけた東ドイツ人が急増。 |
9月11日
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ハンガリー政府は東ドイツとのビザ協定を停止。オーストリアへのハンガリー経由の出国を合法化。東ドイツ政府はこれに激しく抗議。 |
9月30日~10月1日
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東ドイツ政府は、プラハの西ドイツ大使館へ逃げ込んだ東ドイツ人を西ドイツへ追放するという超法規的措置を実施。
「わが社会からはみだした者を惜しむ涙など流すまい!」の声明発表。 |
10月3日
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東ドイツ政府はビザ免除によるチェコスロバキアへの出国制度を一時停止。 |
10月7日
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ゴルバチョフ列席のもと建国40周年記念式典挙行。夕方から各地でデモが広がる。ベルリンでは、アレクサンダー広場で「国家公安省解体!自由を」と叫ぶ若者たちに7000人の市民が呼応するが当局により解散させられる。 |
10月8日
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ベルリン・ゲッセマネ教会前で前日のデモ弾圧に対する抗議デモ。約2000名の若者を当局は容赦なく弾圧、負傷者多数。 |
10月9日
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ライプツィッヒの月曜デモ。ゲヴァントハウス管弦楽団常任指揮者のクルト・マズアら6名がデモの平和的対処を求める「アピール」をもって、市当局へ出向く。軍隊は出動準備をしていたがSED政治局員のクレンツ(当時)の判断で警備当局不介入を決定。7万人のデモ参加者が「我々こそ人民だ!」のシュプレヒコールとともに行進。 |
10月16日 |
ライプツィッヒの月曜デモは12万人規模となる。 |
10月18日 |
ホーネッカー書記長解任。後任にクレンツ政治局員。 |
10月22日 |
日曜対話。「ライプツィヒ・アピール」署名者たちと市民との対話集会が新ゲヴァントハウスで開かれる。 |
10月24日 |
人民議会第10回本会議でSED新書記長クレンツを国家評議会議長(国家元首)、国防評議会議長に選出。議事の模様が初めてTV中継される。 |
10月28日 |
不法出国者とデモ参加による逮捕者への恩赦発表。 |
10月29日 |
当局の呼びかけで、日曜対話集会が全国各地で開催される。ベルリンでは2万人以上が参加-政治腐敗を糾弾。 |
11月3日 |
マルゴット・ホーネッカー(ホーネッカー夫人-国民教育相)、ミールケ(国家公安相)ら5政治局員が解任。 |
11月4日 |
ベルリン50万人デモ。言論・表現・集会・結社の自由を定めた憲法27条,28条の真の実現と刑法の国家反逆罪条項の撤廃などを要求。デモ参加者から警官への呼びかけ「着替えて、私たちの列に加わりましょう!」。 |
11月6日 |
政府は国外旅行法を発表。しかし内容は年間30日以内で外貨の裏付けもなく国民は失望。 |
11月7日 |
人民議会委員会は国外旅行法を否決。シュトフ内閣総辞職。 |
11月8日 |
SED第10回中央委員会総会で全政治局員更迭、新政治局員選出、全党会議の12月召集を決め、本部前で緊急党員集会。 |
11月9日 |
新国外旅行法案により、東ドイツ国民の西ドイツ、西側諸国への旅行、出国、移住の自由化を発表。自由通行を保証するため西ベルリン,西ドイツとの境に、新たに約25の通過所を設置したが、待ちきれない人々が続々と通過所に押しかけたため、遂に深夜から検問なしの自由通行が実現。
「ベルリンの壁」解放。 |
11月10日 |
東西ベルリンで政治集会。西ではコール首相がポーランド公式訪問を一時中断して帰国し出席。東ではSED党員集会に15万人が参加し、党の統一と刷新を要求。 |
11月13日 |
首相にSEDのモドロウが就任。ライプツィッヒの月曜デモに20万人が参加。 |
11月28日 |
コール西ドイツ首相、連邦議会にドイツ再統一を目指す10項目方針を提出。 |
12月1日 |
人民議会第13回本会議で憲法第1条からSEDの指導的役割を規定した項目を削除。SED幹部の汚職・犯罪等が多数明らかになる。 |
12月3日 |
SED中央委員会と政治局が総辞職。ホーネッカーを党から除名。 |
12月4日 |
党幹部の汚職・腐敗に対する怒りから暴力行為、リンチの危険が広がり、知識人・文化人有志が政府と国民の理性に訴えるアピールを発表。 |
12月6日 |
クレンツ、国家評議会および国防評議会議長を辞任。代行に自由民主党のゲルラッハ。 |
12月19日 |
ドレスデンで両ドイツ首脳会談。「条約共同体」の追求、文化協定締結、経済関係の深化など。ドイツ統一要求デモにコール首相の方が困惑し、10項目方針を将来の課題と強調。 |
12月22日 |
コール首相、公式に東ベルリン訪問。
ブランデンブルク門付近の壁に通過所が新設され、ブランデンブルク門は東西分断の象徴から東西和解の象徴となる。 |