ホームページを持ちたい!と思ったのは96年の5月でした。いろいろと本を買い込んでHTMLの勉強をしましたが、よく考えてみると内容がない!そこで行き詰まってしまい8月になってしまいました。そんなある日、昼寝をしているとそこに神のお告げが!!!「そうや!去年の震災のボランティアの話を書こう」という事でしばらくの間、お付き合い下さい。(以下は震災後一年の96年の1月に書いたものです)

阪神淡路大震災後一年を迎えて

あの悪夢のような震災から、はや一年が過ぎようとしています。街は今日も復興の鎚音を響かせています。私にとってのこの一年を振り返ってみたいと思います。

1995年1月17日午前5時46分、自宅のベッドを大きく揺さぶる揺れで目がさめました。TVをつけてみると、北陸東海地方で大きな地震がありましたとのこと。その時は、まさか、あの大好きな神戸がこんな事になっているとは思いもしませんでした。
私が子供の頃、母に買い物に連れていってもらうのは神戸でした。中学生になって、大人ぶって一人で買い物にいったのも神戸でした。写真に凝っていた頃、街を写しまわったのも、初めて女の子とデートしたのも神戸でした。ちょっとおしゃれな神戸の街が大好きでした。
時間が経つにつれ、被害がだんだんとあからさまになってきました。列車は脱線し、阪神高速は倒れています。あちらこちらで火の手が上がり、倒壊した家の中にはまだたくさんの人が生き埋めになっているようです。神戸の友人と連絡を取りながら、私はただ呆然としていただけでした。
その日一日は、何度も来る余震におびえながらずっとTVに釘づけでした。まだ連絡がとれない友人が心配で死亡者リストから目が離せませんでした。
二、三日経って友人ともほとんど連絡がとれ、ほっと一安心していた頃、一本の電話がありました。「真が死んだそうや。」その電話は非情な現実を告げました。十年来の友人である真が倒壊した家の下敷きになって亡くなったのです。葬式は大阪の枚方でありました。神戸ではとてもではないが挙げれなかったようです。普段なら二時間ほどで着くところを、六時間近くかかって枚方にたどり着きました。途中、JRの沿線から見えた宝塚の街はこの世の物とは思えない風景でした。「なんで神戸なんや、なんで他の街やなかったんや。」そういう思いで胸がいっぱいでした。
真は顔面に傷はありましたが、安らかな顔をしていました。二十六年間という短い一生の中で、彼は何を思っていたのでしょうか。もっと一緒に過ごせる時間が欲しかった。馬鹿話をしながら酒を飲みたかった。

祖父母が芦屋で被災しました。全壊です。うちへ避難することになり、荷物を取りに行きました。自分の目で見た神戸の街は破壊され尽くされ、あちらこちらに自衛隊や警察のの基地があり、まるで戒厳令下の街のようでした。
震災後、TVでは恐ろしい被害の状況をずっと伝えていました。水がない、食べ物がない、何もかも失ってしまった人々の顔を見ていると、自然と涙がこぼれてきました。このままじゃいけない、自分にできることがあるはずだと思い、神戸市のボランティアやAMDAの医療班に応募しました。なかなかつながらない電話と格闘しながら、やっと連絡がとれました。しかし、歯科医師は特に必要ありませんと断られてしまいました。
一月も終わり頃になって、やっぱりここは何かをするべきだという思いがだんだんと高まってきました。被害がないうちで一番近くにいる者が何もしないでいいのか。向こうから求められないのなら、こちらから何かをしにいこう。母の知り合いのグループが須磨に炊き出しに行っていたので、それに便乗することにしました。状況を聞くと、入れ歯が無くて困っている方がいらっしゃるとのこと。考えられる道具を全て詰め込んで出かけていきました。
現地に着くと200人あまりの避難者がいました。みんな着の身着のままで逃げ出した人たちです。その中で10人ばかりの治療を行いました。診療室は玄関脇のほんの2畳ばかりのスペースです。チェアは海水浴用の折り畳みベッドです。入れ歯がない人、ブラッシングができなくて歯肉が腫れてしまった人、倒壊した家の下敷きになって入れ歯が曲がってしまった人、いろんな人がいらっしゃいました。90才のおじいさんもいました。入れ歯を失い、歯ぐきだけで救援物資の冷たい食事を取ってます。仕事を失い酒ばかり飲んでいる人もいました。遠慮がちに「お金はいるのですか」と聞いたおばさんがいました。「いらないですよ」と言うとうれしそうにチェアに座ってくれました。結局ここには3回通い、結局のべ17人の治療を行いました。
そうこうしているうちに妹の紹介で、長田の鷹取カトリック教会にも行くことになりました。震災で焼け野原になった鷹取商店街のすぐ横です。カトリック系のボランティアの仮設診療所があり、そこに週一回、居候させてもらいました。たくさんの人が診療所を訪れてくれました。焼け出されて近くの高校に避難している人、ベトナムから移住してきて震災にあった人、ボランティアに来ている人、お年寄りから子供までのべ44人の歯を診させていただきました。ここではたくさんの人との出会いがありました。現地のリーダー、救援のシスター、学生ボランティア、その他様々な人たちと出会いました。みんな、起きてしまったことは仕方がない、これから、どう良くしていこうかということで必死でした。
私は、この震災を通して色々なことを学ばせてもらいました。救援活動も別に感謝されるために行ったわけではありません。格好つけていったわけでもありません。ただ、自分の歯科医師としてのレーゾンディテールが試されるような気がしていたのです。そして人間としてやるべきじゃないかと思っただけです。

月日は流れ、もう一年が過ぎようとしています。現地ではまだ問題が山積しています。しかしながら、あの当時の神戸の人の毅然とした態度は、世界に誇れるものだと思います。あの気持ちがあれば、また元のすばらしい街にきっと生まれ変わるでしょう。私はボランティアの経験を生かして、現在、在宅医療に取り組んでいます。もし、もう一度このようなことが起こったとき、今度は躊躇無く歯科医療人としての行動がとれるでしょう。
最後になりましたが、当時、一緒に救援活動を行ってくれた方、機材を提供してくれた方、その他様々な協力をしてくれた方に感謝の心を込めて、この文章のまとめとさせていただきたいと思います。

96.1.16  やまもと歯科  山本 秀樹

 

実際あのときは大変でした。何をどうやればいいのかも全くわからず、手探り状態でとりあえず行ってみようという思いで始まりました。歯科医師会からはあまり歓迎されず、それこそコソッと行ったものでした。しかしあのおかげで「歯医者なんてどこででもできるんや」という自信がつき、在宅医療を始めることになりました。今では週に一回、特別養護老人ホームに行かせてもらい、せっせと入れ歯を作らせてもらってます。