震災体験を語るページ


<1>1月17日のその朝のこと
<2>幾たびも夢であることを願う朝であった
<3>震災支援への長崎の深き心
<4>やさしいふるさとの風を感じて
<5>鐘ケ江前島原市長の芦屋講演
<6>母校の文化祭で震災講演(98/9/13UP

震災から「もう3年」、「まだ3年」

 この震災体験記録は、震災から3カ月経った頃から平成8年12月までに書き留めたものです。職場の体験記集に書いた「幾たびも夢であることを願う朝であった」以外は、いずれも『阪神長崎県人会だより』に掲載したものです。原稿依頼に対し、ふるさと長崎に関係する出来事を紹介するつもりで書きましたが、まだ余震の恐怖がからだに残っている時で、震災から丸3年を迎える今、改めてご紹介する意義もあるかと思って、並べてみました。
 「もう3年」とも言えるし、「まだ3年」とも言えます。しかし、「まだ3年」なのに、書き留めた震災体験は、今読み返すと、なんだか恥ずかしい。すごく、うわずって音階が高いように感じます。
 なぜだろう。
 震災丸3年を迎える状況は、被災をど真ん中で受けた阪神間の人々でさえ、震災体験を語りだすと、いつまでこだわっているのか、後ろを振り返っている暇があったら、なすべきことがもっとたくさんあるだろうという雰囲気になってしまう。震災体験は、胸の内深くに封殺せざるをえない状況となってきているようにも思います。それだけ、「現在の生活」という重い事実が、次から次へと押し寄せてくるのです。
 例えば、今日の銀行や証券会社の経済破綻の大波の前で、ゆっくりと震災体験を語ることは、なんだか色あせてくるようにも感じます。
 果たして、震災体験を語ることは、感傷に浸る「甘ちゃん」なのでしょうか。
 私には、いつまでも忘れられない光景があります。それは、いよいよ仮設住宅が公園や学校のグラウンドに建てられるという震災から2カ月しか経っていない頃のことです。まだ、市役所庁舎の中にも多くの避難者がいました。ひとりの男性が血相を変えて、被災者の相談窓口として庁舎入り口近くにいた私のところへ来て、住民に無断で近くの公園に仮設住宅を建てているという抗議でした。
 私には初耳でしたが、「仮設住宅建設」という言葉に、ちょっと古い譬えですが、第2次世界大戦で、連合軍がフランスのノルマンジーに上陸したような、救いを感じました。すごい剣幕の男性を災害対策本部へ案内しましたが、そこでも近隣住民無視の仮設住宅建設を非難されたのでした。1時間近くのすったもんだでしたが、最後のせりふが「1年建ったら原状に戻すと約束せよ」ということでした。私は、「当たり前だ。当然1年経ったら、仮設住宅はなくなっている。そんなに長く仮設住宅があってたまるか」と、思っていました。
 それから「もう3年」が経ちます。

倒れた本棚に挟まれたベット。本人は、家族に声
をかけに自室を出ていて助かった。ロックをして
いなかった北側の窓のサッシが動きカーテンが風
で揺れている。(1月17日午前7時頃)

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